高校は中学の延長線ではない--集団の効力が個人の力を引き出す

特に私学がそうだが、中高一貫校が増えてはいるものの、中学と高校は明らかに違う。中学生は10代前半、高校生活は10代後半だ。
普段の学習環境の中心舞台はクラスだが、その学級集団の在り様が個々の生徒の学習活動を大きく左右する。

「たとえば、授業は、先生の指導を中心に、生徒1人ひとりが学ぼうという気持でまとまっていなければ、効果的に進められません。勝手に私語したり、歩きまわったり、遅刻して来る者が多かったり、だらけた空気にクラスが包まれているようでは、かなりの人数の人が学びたい気持ちをもっていたとしても、大きく邪魔をされてしまうでしょう。ひと言でいえば、学ぶための積極的な条件がそなわっていなければなりません。
 しかし、そういう環境的な問題ばかりでなく、むしろそれを自分たちでつくっていくためにも、もっと根本的に、勉強というものの性質を考えておく必要があります。
 これまで自分が学んできたことを、少し注意深くふりかえってみれば、自分の努力もさることながら、学校の先生はもとより親や友だちや、実に多くの人びとの有形無形の力がなければ、とうてい現在の自分がいろいろのことについて知っているというようにはなれなかったことが、すぐわかるのではないでしょうか。もっとつきつめて言えば、自分が自分ひとりで見つけだしたものはなに1つなかったとさえ言えるのではないでしょうか。
 勉強とはもともとそういう性質のものなのです。人間が生み出し後代に伝えられる文化というものは、それを手に入れたいと思う人には、惜しみなくあたえられるのです。そして、私たちの能力・学力というものは、社会や集団の中でこそほんとうにひき出され、育てられてゆくものなのです」(田代三良:『高校生になったら』より)
 我が意を得たりの教育論である。高校は中学の延長線にあると考えている生徒にはえてして手を焼かされる。
長く高校教育に関係してきたボクだが、いま改めて、高校生になったつもりで読み返している。