挨拶で使う口上は難しい

丸谷才一氏じゃないが“挨拶はたいへんだ”。
露伴に暮らしかたを徹底的に躾けられた幸田文さんも挨拶は苦手だったと述懐している。

「挨拶は苦手である。ちゃんとうまく言えたなどという記憶は一つもない。そのかわりといってはへんだが、まずい挨拶をしてしまって、そのあと自分で自分が嫌になるような思いをした記憶なら、いくつも、しかと身にこたえた覚えがある。
と、いうようなわけだけれども、これでも幼いころ、親たちはわたしたちをほったらかしにしていたのではなく、ひと通りは挨拶も家庭教育として、教えてくれたのである。
朝晩の、おはようございます、おやすみなさい、食事のいただきます、ごちそうさま。出はいりのいってまいります、ただいま。
これは今も昔も同じことと思うが、昔は多少きびしく習慣付けられていたとおもう。この挨拶が一家の会話の基礎になるのだ、といった考えによるものであり、また、もののけじめをきちんとさせることだ、ともきかされた。だからこの挨拶をなおざりにすると、うちの中の話がだんだんに通じなくなるおそれがあり、同時にうちの中の秩序が失せ、乱れが生じる傾向になるといって、きびしく叱られた。もちろん、子どもにそんなことはよくわからないのだが、わからぬなりにいうことはきいたのである。
ついでよその人への挨拶、こんにちは、こんばんは、ごきげんよう、さようならなど。
ここでことばだけではいけない、からだも挨拶のうちだといって、お辞儀を習わされる。するとその次は、親類へのおつかいにやらされた。口上、というのを口うつしに習っておぼえて行き、先へつくと声はりあげてそれをいうのである。
たとえば『これは昨日、京都から到来いたしました松茸でございます、まことに香りばかり、ほんの少々でございますが、お勝手もとの御料におつかいくださいませば、うれしゅうございます』といったような挨拶である。
毎日つかうことばはちがって、へんにギシャ張ったいい方だから、おぼえにくいし、言うのにもテレくさくて気がさすし、子どもにとっては大変迷惑なのだが、親のほうはむずかしい顔をして、親の慈悲で教えてやるのだから、文句をいうひまに早くおぼえてしまえ、というのだから仕方がない』 (幸田文≪しつけ帖≫より)

ボクも母親に出入りするよそのひとへの挨拶は厳しく躾けられた。玄関に人が来ているのに挨拶にでなかったりしたひには、あとでお灸をすえられた。お尻をきつくつねる。これが母のボクに対するお灸の仕儀であった。
人さまへの挨拶の口上も教わった記憶がある。畳に座ってお辞儀をするなど当たり前のことだった。もう独り立ちした我が娘たちや末の息子もわりと挨拶はサマになっているので安堵している。小学生の孫娘たちに教えねばと思っているが、いまどきの口上はというと、これが難しい。