学校を真の「学びの場」にするのは容易ではない-教師に求められる謙抑の態度

長年学校現場で働き、リタイアーして早や1年を過ぎようとしている。その間、「子供たちの自主性を伸ばし、自分らしさを発揮させる教育」の必要性を行政当局やメディアや教育評論家から嫌というほど聞かされた。
が、学校を去って解ったことは『現場では何が起きているか。生徒たちの行動はそう容易く理解できない』という事実だった。自分で「わかること」が起きているのなら言葉で表わすことができるけれど、「なんだかわからないこと」が起きているのでは、そう簡単に言葉に出来ないのが正直なところだ。
だから、「この問題は簡単だ」だと解決法とやらを理路整然と語る人は信用できない。
こんなとき、教師は素朴に教壇から生徒たちにこう語りかけよう。
「ボクには師がいる。ボクがここでみんなに伝えることは、ボクが師から教わったことの一部にすぎない。師はボクがいま蔵している知識の何倍、何十倍の知識を蔵していた。ボクはそこからボクが貧しい器で掬い取ったわずかばかりの知識をみんなに伝えるためにここにいるのだ」

自分の師に対する畏敬の念、それに比べたときの自分の卑小さ、それを聴き手に理解させれば、それだけでもう教育は充分に機能する。このような謙抑の態度を教師はもつべきだとフランス現代思想家U教授は語る。
ボクも同感だ。ボクにも国内外に敬愛する3人の師がいる。いずれも故人だが、折に触れ師の面影と生き方を思い浮かべ、心に刻まれた言葉を思い出す。
謙虚に学ぶ教師の姿勢は生徒たちにとって無言の教えとなり、畏敬の念をもつ生徒たちが集う学校が本当の「学びの場」になるのではないか。行動不可解な生徒も少なくない今の学校にあっては、いささか牧歌的で楽観的に過ぎるかも知れないがボクは今なお率先垂範の及ぼす力を信じたい。