“えらい人“とは・・?

ボクが小学校に入学して間もない1948年6月祖父が亡くなった。65歳だった。呉服商をやっていたがデパートが進出して立ち行かなくなった。商家は没落し、商号だけが今も残っている。
息を引き取る何日か前に、小1のボクを枕元に呼んで呟いた一言を今もって覚えいてる。『えらい人になれ』
以来、この歳になっても「えらい人」とは何かがわからない。
広辞苑によれぱ“えらい”というのは①すぐれていること、②人に尊敬される立場にあること、を指すらしい。ボクの敬愛する故藤沢周平氏は「社会通念としては、えらいという場合、人に尊敬される立場にあるいい方にアクセントがある。才能があって人にすぐれていても、社会的に名前を知られないと、世間はなかなかえらいとは認めてくれないのである」(『周平独言』)

そんな意味での”えらい人にになれ”などと子供たちや若者に話しかけるのは辛い。これまで高校生に幾度も、彼らが成長してゆくうえで、励みになるようなことを言わねばならない機会があったが、一度として“えらい人になれ”などと話したためしはない。そんな言葉を使うのが難しい時代である。代わりに“立派な人になろうじゃないか”と励ます。まことに抽象的な概念だが、最近、旧交を温め親交を深める市井の知人、友人のなかに、社会的地位や身分に関係なく大いに学ばなければならいない人や、敬服し脱帽する人が少なくないからである。冬を感じさせない今日の気温ではないが、冬至を過ぎ、心温まる人たちと出逢う機会があることを感謝している。