混線する頭--これもやはりこれまでの“金属(勤続)疲労”の後遺症か・・

久々に長時間のハードな会議に顔を出した。自分の主催した会議ではないが、仕掛け人は我輩だ。夜七時を過ぎて車で家路に急いだ。八時帰宅。頭が混線してある部分の記憶が蘇らない。今日の日付と曜日が混乱する始末だ。集中的に思考し、大勢の前で話しをする機会が最近稀だったせいか、突然の異変にbrain shock、頭脳がビックリしたのだろう。
帰宅すると、加藤周一氏の『言葉と人間』の初版本が届いていた。

1980年、四半世紀以上前の古書だが、秀逸なエッセイか評論と呼ぶべき貴重な短編集だ。75年から76年の約二年間、週一回朝日新聞文芸欄に連載されたもので、加藤さん自身、あとがきの中で『海外に放浪する一日本人の濫読の記録だろう』と記している。
ふと気がつくと、師走も半ばを過ぎた。今年も余すところ2週間足らずだ。当時、近づく師走を前に加藤さんが次のように記してる。

「毎年12月が近づくと、私は1941年12月のある晴れた日を思い出す。
その日、日本国天皇は宣戦の詔勅を発し、全東京は真珠湾奇襲の成功によろこび勇んでいた。いや、よろこびに溢れていたのは、東京だけではなかった。対独参戦を望んで世論を統一し得なかったワシントンは、真珠湾がすべてを解決してくれるだろうと考えていたに違いないし、日本の北進を怖れていたモスクワは、その南進に欣喜雀躍したにちがいない。米国の参戦を待ちに待ったロンドンは狂喜し、パリは占領されていたが、英国に亡命していたドゥ・ゴール将軍は、真珠湾の知らせを聞くや、言下に、『いくさはこれで勝った』といったといわれる。真珠湾奇襲を歓迎しなかった世界の大都会は、奇しくも、ただベルリンだけだったろう。
そのときベルリンから米国に亡命していた劇作家ベルトルト・ブレヒトは、カリフォルニアの仮寓でニュースを聞き、日記にこう書いていた。『アドルフからヒロヒトへ----兄弟よ、やりたいと思っていたことは、週末にやるがいい。しかしハワイの<カタストロフィ>だけはひどすぎる』(1941年12月9日)』
歴史の皮肉とはこのことだろう。