噺の「間」は相撲の仕切りのタイミングと似たようなもの

大相撲九州場所は空席が目立つ。土日は満員御礼の垂れ幕が見えたが、満席とはお世辞にも言えない。
お粗末な前理事長時代を「失われた6年」と酷評するスポーツ・ジャーナリストもいる。同感だが、期待の新理事長も苦労している。これまでの角界のいい加減さから抜けきれない。その最たるものが、土表上の仕切りだろう。両手をつかずに立っていたツケが大きい。その上、仕切りのタイミングが合わず仕切りなおしの連続、観ている者も呆れるくらいだ。大相撲のファン離れが気になる。

お二人とももうあの世に逝かれたが、三遊亭園生と遠藤周作のご両人が、落語の「『間』の極意」について対談したことがある。
遠藤--噺家の話術といいますと、やはり、声の出し方、間のとり方、
   息の仕方、大体この三つくらいになりますか。
園生--そうですね。けども、これはおせえて覚えられるもンなら
   ば、いいわけですけれども、そんなことではダメ、
   へッ。ま、芸てェものは悟りですね。
   ・・・・
   声の出し方、ことばのつおさ弱さ、そういうものをドッサ
   リ組み合わせていったものが一席の噺となるわけですか
   ら、どこかちょっといけないってェと、全体がこれダメに
   なっちゃう。
遠藤--でも拝見してますと、師匠が高座に座られて噺を始められ
   る、あの一瞬間で勝負が決まるという感じがして、実にう
   まいタイミングで声を出される。やはり、あそこにも間が
   あるわけでしょう。
園生--お相撲さんが仕切って立ち上がるあの間とおんなしです
   な。

噺家の落語に限らず、何人かの座談や大勢を前にしたスピーチの場合においても間のとり方大切さ難しさを長いこと痛感させられた。