言葉が映す時代の風景

前世紀末、出現したglobalizationという新鮮な言葉にボクたちは、次世紀、21世紀に希望の到来を期待したものだ。
この言葉を打ち砕いたのが2001.09.11のTerror Attackだ。以来、現在に至るまでTerror(テロ)という言葉がメディアや世界にしばしば登場する。globalizationはどうやら米国一極支配、米国発の言換え、偽装語。最近あまり耳にしなくなった。
言葉は時代の風景を映し、時代の変遷と共に浮き沈みする。

例えば「テロ」という言葉など、1960年10月に起きた浅沼稲次郎社会党委員長に対する日比谷公会堂での刺殺事件は別とてして、メディアで使われることなどほとんどなかった。あの95年、世界に衝撃を与えたオウムの地下鉄サリン事件でさえ、「テロ」と呼称されたのは何年か後のことだ。
まして“自爆テロ”(suicide attack)などという言葉はまさに現代語そのもの。第二次大戦末期の日本軍による“特攻”こそsuicide attackの典型だったが・・。
余談だが、パソコンで物書きに集中しすぎると肩がこる。が、この「肩こり」という言葉はチェコにはないという。よく日本では「劣等感」と云う言葉がよく使われるが、ロシア語には訳せない。心理学者や専門家だけが使用する特殊語らしい。
今や国際語として流布しているterrorやsuicide attackがメディアから消える時代は早く来ないものか・・?