無位無官こそ本物の生き方が問われる

教職から身を引いて半年になる。教師は(かつて)“聖職”などと呼ばれたが、実態は裏腹だ。ボクに言わせれば一面、空疎な職業だ。評論家S氏の言葉を借りれば“空職”だ。

むかし学級担任になった時、クラス生徒への第一声は「ボクは休まない。君たちも学校は休むな」だった。
ボクは教師が仕事を休むことは罪深いことだと自分に言い聞かせてきた。でも、教師は得てして、罪深さや愚かさに気づかずに済む商売だといえる。
「小説は反権力の本質をもつ」と作家であり歌人のT氏は述べているが、このことは教職にも通じる。教師たるもの、その本質は反権力でなければならぬだろう。
ともあれ、聖職とも呼ばれ“空職”ともいうべき教育界から離れて、無位無官のいま、“濁職”の道に身を投じるほどつぶしの利く人間ではないため、なおのこと、これからの生き方の真価を問われそうだ。
いま間違いなく、晩年の入り口に立たされている。
「・・人の晩年は、心身ともおぼつかなくなる時期ではあるけれど、それとは別に若いころには思いもかけなかったような、一生の稔りのごときものが目に入って来る時期でもあるらしい」(藤沢周平)

容易ではないが“一生の稔りのごときもの”をそろそろ見つけ追求するべき時が近づいているようだ。