啐啄(そつたく)について考える

これまで仕事柄、親の子に対する躾の大切さをよく説いてきたボクだが、身を引いたとたん、うちの者や子供たちから逆に叱咤されることが多い。どうやら、長く勤めているあいだに、我が家の作法をないがしろにしてきたようだ。これからの生活課題の1つは自分を躾けることだ。正直なを態度で生活の作法を教わりなおそうと思う。
これを躾というべきかどうか自信はないが、幸田露伴による娘、文に対する“しつけ”は有名である。幸田文の随筆にこんな一文がある。
『父の何気なく云ひだしたことばはマッチであった。しゅっといふ発火のショックにちょっとたじろぎはしたが、光はあるかたちを私にはっきり見せた。啐啄(そつたく)同時であったのだらう』
“啐啄”という言葉を知った。啐も啄も鳥がくちばしで啄(ついば)むという意味である。雛がかえるとき、内の雛と、外の親が同時に同じ箇所をつき砕いて誕生する。仏教用語の教えである。
マッチの発火性の薬剤が軸木と箱の側の二つに分けられて塗られているので、これを摩擦するさまは、まさに「啐啄」で、真にものが見えるのはこの瞬間だといえるのである。
露伴は文に、「お前は赤貧洗うがごときうちに嫁にやるつもりだ」と、茶の湯、生け花のかわりに薪割り、米とぎ、箒の持ちかた、雑巾のしぼりよう、魚のおろし方、襖の張り替えまで教えた。
谷川俊太郎さんから「人間は線のように成長して、子供の時代をおきざりにしているのではなく、年輪のように成長する、つまりこころの断面の真中には、だれでも子供の時代がある。と考えたほうがわかりがいい」といったような話しを聞いたことがある。
自分の娘に対し、“啐啄”のように率直な意見の言える露伴は、ほんとうに話のわかる父親だったといえよう。今度はうちの者や子供たちがボクに率直に意見をいってくれる。ありがたいことだ。
「啐啄」、“時の言葉”にはなじまないが、良いことばに出逢った。