反ナチ「市民的勇気」

『なぜ文明国ドイツにヒトラー独裁政権が誕生したのか?』(講談社現代新書ヒトラーとナチ・ドイツ」より)と問いかけられる。『ヒトラー独裁が国民に支持された体制だったことである。これまで語られてきたドイツ国民は、ナチプロパガンダにのせられて同調したか、テロルの恐怖に脅かされ受け身の態度を強いられていたとされている。・・・五月八日の終戦の日を国民すべての「解放の日」と表現するのも、そうした国民観を基本にしている。だが話はそんなに単純ではない。「解放」された国民大衆が実は圧倒的にナチ支配を支え続けたことが曖昧にされている」(中公新書ヒトラーに抵抗した人々」より)と言えよう。ヒトラー独裁について近年「同意の独裁」なる性格が強調されるのもこのためだ。



ヒトラーが心底ナチ国家を託そうと期待したのは、大人世代より柔軟な青少年世代だった。14歳〜18歳までのナチの青少年組織Hitlerjugend(ヒトラーユーゲント)の存在だ。抵抗する市民の反ナチの行動の前に立ちはだかったのは隣人住民と総統ヒトラーを信奉する青少年だった。ドイツには、戦後被占領地で英雄視されたバルチザンやレジスタンスは存在しなかった。ナチ体制を否定する者は生活と世界を脅かす存在であり、戦時下にあっては自国の敗北を企む反逆者として扱われた。戦後占領下の社会においても、抵抗者であった彼らには裏切り者の汚名がつきまとった。
ドイツ人の反ナチ活動とは、報われない孤独な現実に身を投じることだった(前掲書参考)
にもかかわらず、こうした苛烈な時代に生き、ヒトラーに抗したドイツ人市民が存在した。かれらの決断-行動の理念は何か?ヒトラーのドイツと異なる、彼らの思い描く祖国ドイツ、即ち「も一つのドイツ」に他ならない。
「経済危機が骨身にこたえるのは、昔も今も変わらない。1933年ヒトラー政権を誕生させた大きな要因は、やはりワイマール政末期の深刻な経済危機があった」(前掲書より)
戦時下の代表的非暴力の反ナチ運動の一つは<白いバラ>だろう。ミュンヘン大学生メンバーによる抵抗運動。1942年〜43年6種の反ナチビラを作成、その中心となったのがショル兄妹、Hans SchollとSophie Schollである。二人とも父親の反対を押し切り、ヒトラーユーゲントに加わり組織リーダーになったものの、暴力的体質とユダヤ人迫害に疑問を抱き、反ナチに転じる。


1943年、スターリングラード戦でのドイツ敗北後の2月、第六のビラを「学友諸君!」を大学構内の大ホールでゾフィー・ショルが撒いた。その場面を守衛に密告され、ゲシュタボに逮捕され兄ハンスと共に民族法廷で国家反逆罪の科で有無を言わされず死刑判決、斬首刑に処せられた。第六の最後のビラの一部--
『学友諸君! われわれ国民は愕然たる思いでスターリングラードの地に累々と横たわる兵士たちの屍をながめている。33万人のドイツ軍兵士が先の大戦で伍長だった男の天才的戦略によって、無意味に、また無責任に死と破滅に追いやられたのだ。(中略)われわれは卑劣極まる権力欲に憑かれた一政党の輩のために、ドイツの若者すべてを犠牲にしようというのか? 断じて否である! 清算の日がきた。われわれドイツの若者は、これまでわれわれ国民が耐え忍んできたもっとも忌まわしい暴政に決着をつけよう。われわれドイツの国民すべての名において、アドルフ・ヒトラーの国に要求する。個人の自由を返せ。これこそドイツの最も貴重な財産であり、奴が卑劣極まりない方法でわれわれから騙し取ったものなのだ。(中略)ヒトラーとその仲間が、ドイツ国民の自由と名誉の名の下に全ヨーロッパにおいて、これまで行い続けているおぞましい大量殺戮は、いかに愚かなドイツ人といえどもその目を開かせたのである。ドイツの若者がついに決起し、報いを与えるとともに罪滅ぼしをし、虐待の主を打ちのめして、新たな精神的ヨーロッパを建設しないならば、ドイツの名は永久に恥辱として残るだろう。学友諸君! ドイツ国民の目はわれわれに注がれている.....』
この「白いバラ」の最後のビラをオスロ司教を通じてイギリス側に渡したのが反ナチ抵抗運動の中心人物だったヘルムート・モルトケ伯爵(Helmuth James Graf von Moltke)である。そのビラは1943年7月イギリス空軍によりドイツ上空に撒かれた。
モルトケはドイツの法律家だった。第二次大戦が勃発すると国防軍諜報部に勤務し、戦時国際法の問題を担当したが、その際反ヒトラー派の提督や諜報部中央部長の援護を得ていた。
1941年1月、モルトケ国際法に違反する上司の命令を公然と批判したため、ゲシュタボに逮捕され45年1月民族法廷のフライスラー裁判長により死刑判決。12日後斬首刑になった。


モルトケは既に前年10月11日子供たちに別れの手紙を書いている---『君たちに言っておきたいことがあります。父は学校で学んでいたときから、偏狭で暴力に訴える考えや不遜で寛容を欠く考えに反対してきました。そうした考えがドイツに根を張りナチ国家になって顕れ出たのです。それは暴力行為、人種迫害、信仰の否定、その中心の考えといった最悪のナショナリズムだったのです。こうした事態を克服しようと、父は一所懸命がんばりました。しかしナチスの立場からすると、そうした父は殺害せざるをえないことになるのです』(「テーゲル刑務所からの別れの手紙」より)

非常に宗教的な人物としてモルトケナチスに反対する一方、ヒトラー暗殺計画には一貫して反対していた。
ショル兄妹が中心となった「白バラ」グループの勇気を支えたのは信仰であり、奪い返そうとしたものは「人間の尊厳と自由」である。ヒトラーによる国家的狂気の中で、仲間を守り、人間の尊厳と良心を守り通したゾフィー・ショルの21年の壮絶な人生は、今のわれわれ日本の若者たちの生き方に強い示唆を与えるのものがある。