The Last War とは?

12/8を前にBS1で"The Last War--カラーでみる太平洋戦争"が再映された。


Attack on Pearl Harbor--真珠湾奇襲攻撃・太平洋戦争勃発--「国民一丸となって・・・」とラヂオのアナウンサー。そのとき永井荷風は『国民一般の政府の命令に従って不平言わざるは恐怖の結果なり。元来日本人には理想なく強きものに従ひその日その日を気楽に送ることを第一となす」と。国民の99%が大本営発表のハワイ開戦の勝利の報に有頂天になるなか、清沢洌は「けさ開戦の知らせを聞いた時に、僕は自分達の責任を感じた。こういう事にならぬように僕達が努力しなかったのが悪かった」と慨嘆した。

真珠湾攻撃の話しを聞いて幸田露伴は「若い人たちがなあ。もったいない」と涙を流しながら娘の文に呟いたというー「考えてもごらん。まだ咲かないこれからの男の子なんだ。それが暁の暗い空へ、冷や酒一杯で、この世とも日本とも別れて遠いところへ、そんな風に発っていったのだ。なんといっていいんだか、わからないじゃないか」ー特攻を予見していたのか?

戦局が悪化しカミカゼ特別攻撃隊が出現する。上官の命令による公認の自爆テロだ。特攻に赴いた隊員の多くは戦闘経験の浅い二十歳前後の多感な若者だった。ある特攻隊員の"辞世"が胸に突き刺さる


「空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人が言った事は確かです。操縦桿を採る器械、人格も無く、感情も無く、もちろん理性も無く、ただ敵の航空母艦に向かって吸い付く磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬのです。一器械である吾人は何も言う権利はありませんが、ただ、願わくば日本を偉大ならしめん事を国民の方々にお願いするのみです」

ニューブリテン島で敗戦を迎えた水木しげるが<玉砕>について曰く「『玉砕』というのは、どこでもそうですが、必ず生き残りがいます。将校、下士官、馬。兵隊といわれる順序の軍隊で、兵隊というのは"人間"ではなく馬以下の生物(いきもの)と思われていたから、ぼくは玉砕で生き残るということは卑怯ではなく、"人間"としての最後の抵抗ではなかっかと思う」

開戦の1941年暮れ12月30日の夕刻、浅草の行きつけの食堂の女将さんから来春の句を頼まれ、《門松も世をはばかりし小枝かな》と呻吟した永井荷風。45年8月15日の日記には「・・今日正午ラジオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ。あたかも好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ」とある。


同じ年の9月5日<敗戦日記>の中で「学会の集まりのなかで諸教授が『外国を知らぬから負けたんだ』と述べたの対し、『外国を知らぬからこんな馬鹿な戦争を始めたのだ』と訂正を求めた」と記す仏文学者渡辺一夫は<続敗戦日記>の冒頭で【苦難の新日本の発足を、懊悩と危懼とを以って迎へつゝ、記録に留めることにする。新日本よ、正しくあれ、強くあれ、美しくあれ】と訴えた。
PM Abeの言う<強く美しいニッポン>とは意味が異なる。

あの永井隆博士は『長崎の鐘』のなかで「私たちの仕事はこれからではないか。国家の興亡とは関係ない個人の生死こそ私たちの本務である」「『カーン カーン カーン』と鐘が鳴る。澄み切った音が平和を祝福して伝わってくる」と祈願する。

《人類よ、戦争を計画してくれるな》---これがThe Last Warの結びだ。