辻井喬さんー今の時代に欠くことの出来ない人が逝った

80も半ばを過ぎていたので高齢と言うべきか。辻井喬さんが卒然と逝かれた。

巨大流通グループの経営者、堤清二氏であり、作家、詩人、文学者・思想家でもあった。真の<文化人>と呼ぶのが相応しいだろう。数年前のお正月、宮中歌会始で同席したこともあり、ボクにとって辻井氏は畏敬の念を抱く存在だった。長編小説から数々のエッセイ・評論を通じて、個人と家族、革新と伝統、文学と社会など、対峙する二つの世界を往還する筆致に感銘を受け、共感してきた。
いまボクの手許に昨年初版のエッセイ集『流離の時代』(思想が生み出す言葉)がある。

「詩人ばかりでなく、世間の人が私を変な男と思うのは無理がないと自分の方で思っています。文学的活動だけで暮らしを立てるのはなかなかのことだから、教師になったり出版社に勤めたりするのは普通のことだ。しかし経営者になるとすると事は別だ。それは文学に反する人間になることだ。もしそれが宿命だったというのなら、私はその宿命とどう向き合ってきただろう」−同著本文における一節である。
同書のⅢ章<伝統のなかの革新>を再読するうちに、現代の日本人が心に刻むべき文章に出逢い、その意味を自分なりにじっくり考えている。幾つか記録にとどめておきたい。
「現代の日本に生きる人々にとって、あらゆるタイプのユートピアは消滅した。ソビエトの崩壊は最も大きなものだったけれども、アメリカン・デモクラシーにしても、そのユートピア性は極めて疑わしいものになってしまった。
 そうした大きな体系のユートピアばかりでなく、『豊かになれば幸せになれる』『科学技術が進歩すれば幸せになれる』という進歩への信仰に基づくユートピア楽天主義が姿を消したのである。この、社会的気分の変化は、マクロ経済の豊かさ(経済大国指標)と個人の豊かかさの実感の乖離、巨大科学が残酷な兵器を生み出したという現実、産業の拡大が生活環境を劣悪にした、というようないくつもの経路を通じて、それに情報化社会の拡がりが人間性を脅かしているのではないかという不安も混じって、文学者を懐疑的にしている」
そして辻井氏は“伝統”というものに対する文学者の態度について次のううに述べている--
「伝統を正しく再評価し、そのなかから未来に渡すべき本質を見出し、自らの創造的エネルギーとして活用することは、今日の文学者が早急に取組まなければならない仕事のように思われる」
「私は感性から、ひとつは思想が、ひとつ美意識が生まれるのだと考えている。おそらく今世紀、日本語の文学は欧米の思想をも知識としてではなく、自らの感性のなかへと吸収するのではないか。しかし、その営みが文化芸術創造へと昇華するためには、伝統と日本的美意識を意図的に歪め、教育の場で生徒たちに刷込もうとする意図をまず排除しておかなければならない」
「伝統のなかからしか本当の創造的なものは生まれてこないことは自明の理であるが、その『伝統』は、教育が悪い、民主主義が日本を堕落させたと叫んでいる人たちが言う伝統ではない」
更に福島原発事故を<原発神話の最終崩壊>として捉え、「原子物理学や理論物理学に無案内な私も、・・・どうやら原子力発電の低コスト性、現在の産業構造への有用性も、安全神話と同じように神話なのではないかと思えてくる。原発問題は核爆弾製造の平和利用から発想するのではなく、・・・従来の民族国家とは異なる今後の国のかたちについての思想の上で新しく検討されるべきであり、その上に立って、新しいエネルギーはどうあるべきかの論議が必要ではないかと私は考えはじめている」とも語る。

また<過去を美化する>ことの危険性に触れて、「過去を懐かしむ、過去を美化するという心の動きを世の中を忘れて解き放ってしまうと、それはかつての国粋主義の時代や反社会的ナショナリズムに城を明け渡してしまうことになるだろう」と。

病院のベッドの上で3/11大震災に遭ったという辻井さんー「テレビでその模様をみていて、人間にいつどんな災厄が降りかかるか分からない。その不安は現代になって以前より大きくなったのではないかと思った。そこで私はもう一度、『執行猶予人間』という言葉を想起したのである。中二階論といい、決して、秀れて適確な言葉ではないと自分で感じているが、これを出発点として、人間としての生き方や在り方への認識を深めていきたいと思っている」

当然のことながら、State Secrets Bill(特定秘密保護法案)阻止の世論をリードする一人であった辻井さん。氏を失った穴は余りにも大きい。