hawkish PM Abeの“正体”見たり

この夏の最もショッキングな≪出来事≫の1つは8/15第68回全国戦没者追悼式でのPM Abeの式辞だ。
武道館の会場に、開式10数分前にMr Abeが到着したという。異例の早さ、ただならぬムードに包まれた。


この追悼式はA Government-sponsored Memorial Ceremony for Japan's War Deadであるだけに主催者PMの式辞で始まる。心なしかマイクに向かうMr Abeへ注がれる天皇・皇后の目は鋭いものがあった。
式辞の内容を聴いて直感的にオカシイ。これまでのPMと違う。内容が空疎な感じがした。
戦没者に対し、「あなたたちの犠牲のおかげで、私たちは本日の平和と繁栄を享受しています。私たちはいつも、あなたたちのことを忘れません」「世界の永久の平和に向け貢献します」と、決まり文句を述べたものの何か大切な言葉が欠けている。これまで20人の歴代PMが毎夏口にしていた言葉が聞かれない。曰く「日本は各国、特にアジア諸国の人々に多大な損失と苦しみをもたらした」「(それについて)深く反省し、心から哀悼に意を表する」−この表現が欠落。さらに重要な『不戦の誓い』を新たにする(renew a pledge not to fight a war again)こともしなっかた。
原稿の読み落としなどではない。内外からの批判承知のうえの確信犯である。

言い換えれば「アジア太平洋戦争は軍国主義日本によるアジア諸国に対する侵略戦争ではない」「安全保障環境が変わりつつあるなか、自衛の為には相手国と交戦することもあり得る」と予告しているようなものである。

「8/15の式典は日本の戦没者を追悼する日だ。PM Abeのスピーチに対し中韓からとやかく言われる筋合いなどない」と青筋たてる御仁もおいでだろうが、それこそ世間知らずの内向き志向に他ならない。
追悼式はMemorial Ceremony for War Deadと位置づけるのが国際常識だろう。
例えば隣国の韓国にとって8/15は、終戦記念日で日本の植民地支配から解放された「光復節」だからだ。

PM Abeの式辞に対し韓国Park Geun-hye大統領がTV演説でIt will be difficult "to build trust for the future if Japan doesn't have the courage to face history" and consider "the pain of others.”(日本が歴史に正面から向き合い、他者の苦痛を慮る勇気を持たなければ、将来に向けての信頼関係を構築するのは困難となろう)と述べている。蹴散らすことのできない重たい言葉だ。


Abe Cabinetは内外の批判や懸念の声に耳を貸すことなく、集団的自衛権の行使を可能とするべく、虎視眈々と密室会議を進めている。誰のための集団的自衛権なのか? ドイツの政治学者Carl Schmittの次の指摘は的を射ている--
「みずからの敵がだれなのか、誰に対して自分は戦ってよいのかについて、もしも他者の指示を受けるというのであれば、それはもはや、政治的に自由な国民ではなく、他の政治体制に編入され従属させられているのである」--

PM Abeの口癖になっているレトリック「安全保障環境の変化・・」を手玉にとって完膚無きまでに論破されるであろう今は亡き加藤周一さんの明解なコメントを心に刻んでおきたい--

「『備えあれば憂いなし』やラテン語の諺言の『平和を望めば戦に備えよ』は、国際環境によって意味があったり無意味であったりする話です。環境の分析を伴わなければ、半分の真実にすぎません。戦力の『備え』は、必ず他国(殊に隣国)との緊張関係を誘発し、戦争の『憂い』を強めます。『備えあれば憂いなし』の半面は『備えあれば憂い増す』ということです。『平和を望めば戦に備えよ』の半面は、聖書の『剣によって起つ者は剣によって滅ぶ』です。問題は半面のどちらが一般に正しいかではなくて、たとえば戦後日本の具体的な環境、殊に冷戦終結後の東アジアにおいて、どちらの考え方がより現実的であるかということです」