辨慶役者は?『ヤーレ暫く・・・』

5代目歌舞伎座の<杮落とし興行>。夜の部最後が【勧進帳】。幸四郎の辨慶と菊五郎の富樫の間の<山伏問答>に“火花が散る”と某演劇評論家幸四郎は千秋楽当日に1100回の記録を達成する。“熱のこもった辨慶役者だ”という。
(熱がこもり過ぎて汗ビッショリだったが・・・)

團十郎にとってみれば『ヤアレ暫らく御待ち候へ。』と言いたいところだろ。
「『勧進帳』は、歌舞伎十八番の中で、今日最もしばしば上演されるばかりでなく、歌舞伎劇として、歌舞伎舞踊として、代表作視されてゐる作品である」(河竹繁俊校註:歌舞伎十八番集)
能楽の『安宅』を母胎としながら、一層戯曲的に改組され、作曲の妙と演出の美と相俟って、見事に歌舞伎化され、高雅典麗な舞台を作り出してゐる一面、大衆的魅力にも富んでゐるので、確かにその声望に値ひする劇である」
「勿論、今日の完璧な舞台が生まれるまでには、幾多名優の工夫演練が積まれてゐるのだが、特にその演出上大きな功績を遺したのは、九代目團十郎であった」(前掲書)


天保11年3月江戸河原崎座において「歌舞伎十八番の内」と銘を打って初上演したのは九代目の父七代目團十郎であったという。


当時河原崎座狂言作者は、三升屋二三治が顧問的な客座の地位にあり、三代目並木五瓶が実質的に立作者だった。・・能の「安宅」に、講談で評判の「山伏問答」を摂取して劇的効果をあげようと作者並木五瓶は苦心したわけだ。
十二世團十郎が自著『歌舞伎十八番』の中で述べている---



歌舞伎十八番は、七代目團十郎が祖先の得意とした十八の演目を制定したものですが、十八番の中でも、初代、二代目、四代目が創ったものと、七代目が新しく加えた『勧進帳』とでは演劇的に大きな変化がみられます。それまで永く町人がみることのできなっかた能の世界を、歌舞伎の舞台に移した完成度の高い本と演出は、荒事系の十八番と比べると演劇的に成熟しています。また。知・勇・仁の揃った芝居で、仁が入ったところが面白いと思います」
「『勧進帳』という演目が、我が家(市川宗家)にとって特別であると感じたのは、父に辨慶を教わった時です。私は十六歳でした」と云う團十郎さん。

「江戸時代は、家の芸といいますと、『他家は遠慮してやらない』というのが不文律でした。いろいろな方がなさるようになったのは、明治以降です。『またかの関』と言われるくらい『勧進帳』が頻繁に上演され、大切な狂言の乱発を許していいのかというご意見をいただいき、叔父の二代目松緑に相談したことがあります。--『そんなのはやりたい奴にやらせればいいじゃないか。そのかわり、お前が他の人のやらないような立派な辨慶になればいい』と励まされましたが、未だに結論は出ず、悩むところです。」と語っている。

下手より、太刀持ちと3人の番卒を従えて登場した富樫の第一声「斮様に候ふ者は、加賀の國の住人、富樫左衛門にて候。さても頼朝義経御仲不和とならせ給ふにより・・・」で始まる「勧進帳
花道より、笈を背負い、網代笠、金剛杖を携え義経が登場、続いて、山伏姿の伊勢、片岡、亀井、常陸坊が従い、最後に辦慶が現われる。
義経「いかに辨慶、道々も申す如く、行く先々に関所あつては、所詮陸奥まで思ひもよらず、名もなき者に討たれんよりと、覚悟は疾に極めたれど、各々の心もだし難く、辨慶が詞に従ひ、斯く強力と姿を変たり、面々計らふ旨ありや」
4人の山伏姿の従者が「・・いでや関所を踏み破らん」と気負い起つのを制して「ヤアレ暫らく御待ち候へ。先程も申す如く、これは由々しき御大事にて候。・・・」と辨慶が自分に任せてもらいたいと諭す。
「とにもかくにも、辨慶計らひ候へ。各々違背すべからず」と義経。「畏まって候」と山伏4人。「さらば、皆々御通り候へ」と辨慶。かくして<安宅の関>と向かう。


そこにあるのは主従の絆であり、「敬って、頼らず」の心の間を通って花道に出て行く十二世團十郎辨慶の精神である。


“十八番”は<オハコ>とも読む。二代目さんが十八の演目の台本を箱の中に大事にしまっておいたことに由来する。
勧進帳」は市川宗家の大事な“十八番(おはこ)”である。辨慶と富樫は團十郎さんと海老蔵さんの父子コンビが一番だった。