運も才能のうち

第二次大戦が終わってながく使われていた言葉「鉄のカーテン」。1946年3月英W.Churchill首相が米国ミズリー州の大学で行った次の演説の中で用いたのが始まりとされている--

From Stettin in the Baltic to Trieste in the Adriatic, an iron curtain has descended across the Continent Behind that line lie all the capitals of the ancient states of Central and Eastern Europe.
(バルトのシュテッテンからアドリアのトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。中部ヨーロッパ及び東ヨーロッパの歴史ある首都は、全てその向こうにある)
これにより、米ソ冷戦下の緊張状態を表す言葉となった。「鉄のカーテン」を象徴するのが48年のベルリン封鎖、49年の東西ドイツ分離独立、そして61年8月のベルリンの壁の建設にあることは大方の識るところである。

が、Churchillのひと言で世界を席捲した「鉄のカーテン」だが、この言葉自体の歴史は古いと云う。吉田秀和氏が明快に解いている--
「西洋の劇場では、舞台と客席とのあいだに布地のカーテンだけがあるのじゃない。もう1つ鉄の扉が備えつけてあって、劇が終り、カーテン・コールが果てしなくくり返されるときに、この鉄の扉がガラガラと降りて来る。そこで熱狂している観客がもう帰るしかなくなる。この鉄の威嚇的で冷酷な感じをチャーチルは使ったのだ。それゆえ『iron curtain』は『鉄のカーテン』ではなくて『鉄の扉』と訳すべきであった」
吉田さんはChurchillが「鉄のカーテン」という比喩を使ったのを、あの大政治家は言葉の藝においてさすがに優れているもう1つの例をあげている。昭和10年代のいわゆる日支事変について議会で質問されたときの答弁ー「日本の派遣した百万の大軍は、むなしくアジア大陸を彷徨しているに過ぎない」--
このChurchillの答弁を新聞で読んだ吉田さん「この戦争で日本のやっていることの真相を喝破している」点に打たれたと云う。そのうえで「これを読んだとき、はじめて、1つの真実を完全に言い当てる言葉というものにぶつかって、痛棒を喰らったように感じた」と戦中・戦後を通じて実感していたようだ。

吉田さんは続けるー「詩人とはこのような、人が一度聞いたら永遠に忘れられない言葉を発する人のことを云う。その言葉は真実を述べているから、いつまでも残る。詩人とはそういう使命を帯びて生まれた人のことだ」
では、評論家・批評家はいかにあるべきか。吉田さんに言わせれば「・・批評家はやはりうまいことをいわなくちゃ」ということになる。

丸谷才一さんは「吉田さんの音楽評論がなぜあんなに人気があるのか、わかったと思いました。つまり『うまいこと』言っている。音楽と人間についての真実をうんと上手な言い回し、鋭くしゃれた小気味よい言い方で語っているからですね。すなわち詩人だから、と言い直してもいいけれど」と賞賛している。加えて吉田さんは運がよかったと丸谷さんは云う--「日本の音楽の興隆期で、質の高い聴衆がぐんぐん増えてきました。彼らが増えてくるのには吉田さんの文章の力が絶大だったんですが、両々相俟って、じつに具合のいいことになりました」--「吉田秀和文化勲章受賞を祝う会」での丸谷さんの祝辞の一節だが、吉田さんの運の良さについて丸谷さんが別のレセプションでも述べている--

「吉田さんのツキのよさを最もよく示すのは、一時あんなに熱中していて、相撲の本を一冊か二冊書きそうなくらいだったほどの相撲好きだったのに、三十年ばかり前にじつにあっさり捨ててしまったことです。相撲協会八百長問題に対する対応がどうもおかしいと怪しんで、相撲見物をやめてしまった。よかったですね。あの調子で相撲好きのままでいたら、八百長だのシゴキだののせいでかなりみじめな思いを味わわなくちゃならなかった。そしてそうなってから相撲と縁を切るのでは、いささかみっともない感じだったでしょう、三十年前にきれい縁を切って本当によかった」
偉い人にはツキもあるものだ。