“教養”というものを考える

僕は教養と云う言葉を余り使わない。その意味がよくわからないし、可笑しな言い方だが僕自身、あまり教養のない人間だと思っているからだ。
ところでこの“教養”について、吉田秀和さんが『千年の文化 百年の文明』(海竜社)のなかで語っている。「どんなことでも言葉にできる、という信念があります」「音楽が聞こえてくるような文章を書きたい」と言っていた吉田さん。言葉が柔らかく説得力がある---

「『教養』とは何か? 似たようなものに『修養』という言葉がある。教養はそれとどう違うのか。修養はモラルに関する概念であり、人格の形成により直接つながるものであるのに対し、教養は直接役に立つ、立たないは別として、何かについての知識の獲得にはじまり、それを身につけてゆく。その経過が大切なのではないか。つまり何かについての知識をたくわえることが目的なのではなく、知識の獲得、あるいは所有が、その人を『よりすぐれた人間』『より充実した人生を送る能力を具えた人間』に変えてゆくという含みをもっているのではないでしょうか」
「教養ある人とは、生きてゆくための最小限度必要なものだけをもって生きている人間よりも、『より人間らしい人間』だという意味合いをもつ」
「こういうわけで、教養とはたしかに知識の獲得という道を踏まなければならないが、知識の有無で終れりというのでなく、それを持っていることが人間として豊かな生き方をするうえで力になるという場合に使われる言葉です。教養人とは、そういう精神的態度を持している人間を指すののであって、その意味で、教養とは、人間の間に、普通以上の人と、そうでない人の区別をつける目安ともなる。従って、人間の上に人間を作らず、人間の下に人間をおくまいというデモクラティツクな考えとあわない面をもつ」 
福沢諭吉翁に叱られるかも知れぬが、“なるほど!”と唸りたくなる一面の真理である。
吉田さんは続いて<役に立つ教養、無用の教養>について自論を展開する--
「・・私たち現代日本の普通の人間は、有用人と無用人の間にひきさかれて生きている。私たちは、社会の中で自分の椅子を手に入れ、それを維持するため、あくせく働く一方で、それから解放され、無用のことで時間を潰して生きている。それは私たちが余暇を必要とするだけではなく、有用性に標準をあわせた生き方だけではどうしても満たされない自分の中のある部分--無用であって実は生命の根源につながる---から湧いてくる要求にこたえるための重要な意味を持っている。現代の人間は、多かれ少なかれ勤労と自由と、この二種類の時間の中で生きてゆくための智慧を、各人各様身につけずにはすまなくなっているのではないでしょうか」
吉田秀和さんをお弟子さんたちは「音楽評論のプロフェショナル」だと敬愛する。

文化勲章受賞の丸谷才一さんは評論家吉田秀和について「とにかく文章がうまかった。内容があって新味のある意見、知的で清新で論理的な文章を、情理兼ね備わった形で書くことにかけては、近代日本の評論家中、随一だったのではないか。わたしはもちろん、いわゆる文藝評論家たちを含めて言っている。美術や文学を論じても、文明論や都市論を主題にしてもすばらしかった」と逝去を悼む。

7年前、E-TVで「それでも、いつまでか知らないが、私は書き続けるだろう。人間は生きている限り、自分を信じ、愛するものを力を尽くして大切にするほかないのだから」と吉田さん。音楽を言葉で奏で、自分自身を高めようと戒めてゆく姿をボクは仰ぎ見るしかない。