日本が沖縄に属する

沖縄が日本に復帰して40年になる。72年、佐藤内閣による米国との沖縄返還交渉の欺瞞性に抗議してデモに参加したことを思い出す。


日本政府が掲げた返還条件は「核ぬき本土並み」だった。何度耳にしたことか! 『本土並み』とは何の意味か? (“核抜き”すら疑わしいが)“本土並み”とは<米軍基地のない沖縄>だったはずだ。沖縄の施政権を米国が占有していた時代ならいざ知らず、今なお“本土”なる呼称がまかり通るのはドダイおかしい。ハワイと米本土との関係とはワケが違う。


沖縄の悲劇は1945年3月26日に始まる。米軍の上陸作戦により沖縄では4人に1人が命を失くした。“Typhoon of Steel”(鉄の暴風)と呼ばれた米軍による焼土作戦は6月23日に終結した。

沖縄に移り住んで半世紀になる俳人Kさんが2003年に「沖縄忌俳句大会」を立ち上げた。今年で10回目になる。Kさんの句---
  沖縄忌戦火の絶えない地球(ほし)にいて
<沖縄忌>とは6月23日を指す夏の季語。「10数万人もの犠牲者を出した悲痛な史実を語り継ぎ、記憶し続けるため、沖縄忌という季語を定着させたい、その一心でした」とKさん。

ボクの旧友、沖縄戦史研究の第一人者O氏と数箇月前電話で話した。氏は現在沖縄国際大学の講師でもあり、沖縄戦語り部としては右に出る者はいない。「是非一度沖縄に来い」と云う。が、なぜか乗り気がしない。ボクにとって観光地オキナワは存在しない。このところ後ろめたさが強まっている。祖国復帰運動のときに『沖縄を返せ 沖縄を返せ』と繰り返されたスローガンがいつの間にか『沖縄を返せ 沖縄に返せ』に変わってしまったとA紙記者。「そこには沖縄と“本土”との連帯感はない」と云う。

沖縄に住む人々のなかに、米軍基地の押し付けを<差別>ととらえる意識が広まっているようだ。
「いま沖縄は氷のような冷たい目で本土を見ている」と沖縄に住む作家Nさん。このまなざしは「無関心という加担」への無言の抗議に違いない。



「押しつけ憲法とか言ってますがね、沖縄はその憲法を押しつけてもらえなかった」と元コザ市長が怒りを込めていた。
ボクの沖縄に対するイマジネーションの原点は大江健三郎さんの「沖縄ノート」(70年9月初版)にある。同著の冒頭<日本が沖縄に属する>のなかで大江さんは語る--


『僕は沖縄へなんのために行くのか、という僕自身の内部の声は、きみは沖縄へなんのために来るのか、という沖縄からの拒絶の声にかさなりあって、つねに僕をひき裂いている。穀つぶしめが、とふたつの声が同時にいう。そのような沖縄へ行く(来る)ことはやさしいのか、と問いつめつづける。いや、僕にとって沖縄へ行くことはやさしくはない、と僕はひそかに考える。沖縄に行くたびに、そこから僕を拒絶すべく吹きつけてくる圧力は、日ましに強くなると感じられる。この拒絶の圧力をかたちづくっているもの、それは歴史でもあり現在の状況、人間、事物であり、明日のすべてであるが、その圧力の焦点には、いくたびかの沖縄への旅行で、僕がもっとも愛するようになった人々の、絶対的な優しさとかさなりあった、したたかな拒絶があるから、問題は困難なのだ』