自問--Less is Moreの生活思想に転換できるか?

3/11以来、<失語症>に陥っている自分に気づくことしばしばだ。あの時、新丸ビルの飲食店で震度5強の大揺れに怯え、テーブルの下に隠れた。避難訓練ではない。トイレで強烈な余震に出くわし慄いた。

ビル内が一瞬パニック、digital signageの前に人が群がる。バーチャル・リアリティと見紛うビルの炎上、そして巨大津波を眺めため息をついた。「これは困ったことになったぞ」



9/11Terror AttackをTV映像でみた時の直観に似ている。

3/14(月)夕刻、職場にいたボクの携帯にalert mailが飛び込んできた。
原発メルトダウン。外に出るな。窓を閉めろ>(まさか!) 官房長官曰く「水素爆破で原子炉建屋が壊れた。いま直ちに影響はない」
後で判ったことだが、東電か政府の情報隠しだった。あの時melt downが起き、radioactive contaminationが始まっていたのだ。

当時、生後10ヶ月足らずの男児をもつ次女が一家で海外移住を本気で考えたほどだ。我がファミリーにしばらく沈鬱な空気が流れた。
あれから間もなく1年、今なお不安と憂鬱な気分が心底に沈殿している。“況や原発避難民をや”だ。

脱原発・No More Nuclear Power Plants”を声を大にして叫びたいのだが、何故か憚れる。ついつい為政者の体たらくを嘆き、TEPCO憎しを口にするものの後が続かない。失語症だ。


「今回の問題は我々にも責任があると思う」--ある旧友の年賀状の挨拶だ。
3/11震災によって、日本の弱い部分が露呈した。原発事故も「TEPCO糾弾」一辺倒というワケにはいかない。原発を稼動させてきたのは自分たちの欲望からでもある。電力を大量に消費する社会で、その利便性を享受してきたのは他ならぬ私たちではないか・・。ここで我々に求められるのは相応の自責の念と、こんにちの文明社会に対する根源的な問いかけだろう。

被災地現場に足を運べば済む問題ではない。“現場に行く前から結論ありき”のルポルタージュには辟易とする。
TEPCOの電力料金値上げ計画に東京都も関係大臣も怒り心頭だが、本音は原発再稼動に向け舵をきりたいところだろう。大衆世論の多くは脱原発に向かいつつある。危険なのはleading voiceや英雄待望論だ。俄かに問題を単純化する歯切れの良い御仁が一番危ない。更に日本人特有の「集合的無意識」も要警戒だ。


まずボクたちが自問自答すべきは半世紀以上に亘るMore is Betterの生活思想からLess is Moreに転換できるか・・・。Low-lights are a highlight(弱光こそ最高の輝き)を日常生活に採り入れられるかだ。