Revitalizing Japan(国興し)とは何ぞや?

Y紙発行の日刊英字紙の一面に連日、REVITALIZING JAPAN--Building a disaster-resistant nation ”なる白抜きの小見出しのもと、かなり長文のコラム?が連載されている。同紙編集諸子の手になるモノか・・。<ニッポン再生--災害に強い国づくり>とでも言おうか。本日(2/7)のHeadlineは“Discussions on relocation capital functions heat up again”(首都機能移転論議再燃)だ。


3/11から間もなく1年を迎えるが、最近の大手メディアはどうもオカシイ。
Revitalizing Japanの中には“出口無し”の苦境に置かれている福島原発事故による避難民の現状に寄り添うどころか、「原発安全神話」をまたもや後押しする姿勢は隠しようがない。“Goodbye to nuclear power plants”(脱原発)に向かおうとする世界の潮流から国民の目を遠ざけようとしている。

「3.11のあと、私たち監督協会は三つの方針を立てました。その1つは『記憶の記録化』です」と日本映画協会崔洋一理事長。

さらに「東京国際映画祭で、世界の映画は原子力をいかに見つめてきたかという特集上映を提案しました。国際映画祭ですから、日本映画界が立ち向かう姿勢を世界に発信しなければと」と語る。脱原発を唱える崔理事長の提案は採用されなかたが、来年も提案するという。昨年の映画興行収入は17.9%の減だったが、そのうち震災の影響は4%程度に過ぎず、日本映画の企画幅の狭さと乏しさの影響が大きいと専門家筋は分析する。

折りしも先日、福島原発事故20㌔圏内にある川内村の村長さんが「帰村宣言」をした。避難自治体で初めてだが、村民は歓迎するどころか反応は冷ややかだ。仮設住宅から約8㌔離れた郡山市の小学校に長女(8)を通わせているSさんは「原発はまだ収束していない。本当に安全が確認される前の帰村宣言はオカシイ。『自主判断』は無責任ではないか」「放射線から逃げてきた私たちが、どうして放射線を浴びる仕事をしなければいけないんですか」と憤慨。


東北の人は口が重く辛抱強いと言われるが「私はかねがね北国の人間が口が重いというのは偏見だと思っている。あれは外部の、自分たちよりなめらかに口が回る人種の前でいっとき口が重くなるけのことで、内輪同士ではそんなことはない」と我が敬愛する藤沢周平さんはどこかで語っていた。

その周平さんも没後15年になる。先月下旬、偲ぶ会『寒梅忌』が鶴岡で行なわれ、福島からも大勢の周平フアンが駆けつけた。2年前に開館された記念館の入館者が14万人を超えたという。知らず知らず、3/11後の被災地の苦しみ、東北地方全体を覆う不況の波についての話題に集中したようだ。

福島の人たちの「この地で生きていくしかない」「どうやって命を守っていくか」という言葉に胸を痛め、思わず、周平さんのコトバ「生きるということが、時には耐えるということと同じだということ」(『梅薫る』)があらためて胸にこたえたという藤沢周平文学愛好会顧問のM.Sさん。「歩いても出口が見えない暗闇に置かれた人間の気持を作品に書かれた藤沢さん、ご存命なら、どんなことを思われるだろうか」と仮想する。


原発事故の恐怖を脇においたかのようなThe DY紙のベタ記事には腹が立つ。