“曖昧な日本”に新生はない
3/11巨大地震と恐竜津波の爪痕は人々の眼に癒しがたい惨禍を刻んだ。quakeとtsunamiの自然災害が呑みこんだ夥しい数のsudden death(突然の死)の悲しみは尽きることなく、僕たちは言葉も無く眼を閉じ鎮魂を祈るほかない。
ボクも仲間らと福島の被災地に足を運び、間もなく1年が経過する現地の姿をこの眼にしっかり焼き付けておこうと考えている。
「けれども、それに続く原発事故が天空と大地に放った放射能は、音も無く、臭いも無く、色もなく、そして何よりも、生きるものに対してslow death(時間をかけてやってくる晩発性の死)をもたらす」(内橋克人編<大震災のなかで--私たち何をすべきか-->岩波新書)
<あいまいな日本の私>の大江健三郎氏は前掲書のなかで“私らは犠牲者に見つめられている”と題して仏Le Monde紙東京支局長の問いに答える--
「いま現実のものとなり、激烈に進行中の福島原発の危機が、すでに予告されている悲劇の最小限までに抑え込まれることを、もとより私は願います。しかし、どのような結果となるにしても・・・核とはどういうものかという危機の国民的実感において、これまでのあいまいな日本が続くことはあり得ません。日本の現代史は、明らかに新局面にいたっています。・・・この現実の事故をムダにせず近い将来の大災害を防ぎうるかどうかは、私ら同じ核の危機のなかに生きて行く者らみなの、“あいまいでない”覚悟にかかっています」
大江氏は“知の巨人”、故加藤周一氏の考えを引き合いに出す----
Tessa Morris-Suzuki氏も前掲書の中で、<私たちが知る日本は終りなのか?>と自問し「20年余にわたり、日本は目標を喪失していた、と多くの人々は感じている。経済成長というグランド・ビジョンはすでに持てない。とりわけ、若者たちの多くは、不安からの逃避先をシニカルな個人主義に求めた。それが突然、環境の大転換によって、なすべき課題が眼の前に山積した状態となった。市民社会の存在が、再び重要性を帯びてきたのである」
「地震がもたらしたのは、日本の破壊ではなく、新生である」と柄谷行人氏。