天才か反逆児か?

落語界の風雲児、談志が亡くなった。83年、昇進制度を巡って小さん師匠に異を唱え、落語協会を脱会。立川流を創設、次々と弟子を誕生させたが、厳しい上納金制度でも有名だ。通常の寄席には出られなかったから無理もなかろうが・・・・。

2002年5月16日、“目白の師匠”、小さんが87歳で逝った。が、談志は通夜にも告別式にも姿を見せなかった。談話すらない。
談志の訃報に小さんの兄弟弟子で落語協会会長の小三治さんが談話を載せている。
「ずっと気になる存在でした。わがままと勝手を両手で振り回し続けたようにもみえますが、その蔭で寂しさも抱えていたと思う。意地を貫き通したとことは『おお、やるじゃねえか』と言ってやりたいが、やっぱりちょっと寂しいです」


インタビューに答えて小三治師匠曰く「いや、あの人は噺家としては最高の才覚を持っている人ですよ。すばらしい才能を持っている人ですよ。ただ、私としては、そうですねェ、議員なんかにならなきゃ良かったと思うけど、でもあの人はそういうことが目的で生きてきたと言えるんです。権力に憧れていた人ですからね。そのため三遊協会分裂のもとを作ったのはあの人ですよ。ねえ、それから、結局は落語協会を飛び出して、立川流とかっていう、家元とかっていう名前を自分ででつけたわけで、誰も周りがいったわけじゃねえのに。そういうところもあの人らしいなあって、苦笑いをして見て来たわけです。
でも、まあ、それを通したために、世間がそてを認めるというか、それだけのパワーを見せつけられたって言うのは、すばらしいじゃないんでしょうか。どうでしょうか。そういう点には私はあこがれませんですけどね」

“どうでしょうか”とインタビュアーに問いかけるところは小三治らしい。
<いま談志さんにおっしゃりたいことは?>
「いやあ、ありませんよ。『よく生きたいように生きたね、良かったね』ってことかな」

確かにに落語界の風雲児には違いなかったが、ボク自身談志節は余り好まなかった。玄人好みのイブシ銀、小三治さんの“マクラ”にはかなわない。