名匠は己に厳しい

今年、今井正監督の生誕100周年、没後20年になる。1935年東宝に入社、当時の同僚に市川崑がいた。


戦後邦画の左翼ヒューマニズムを代表する名匠今井監督は82年「ひめゆりの塔」をリメーク、完成後二度とメガホンはとらないと宣言したという。当時70歳。「70歳を過ぎてからつくった監督たちの作品を観ると、往年の作品と比べて一様に腕が落ちている、と私には思える。だとすれば、私も例外であり得るはずがなく、そんな腕の落ちた監督の作品を、お金をとって見せるのは観客に対して大変失礼だ」が理由だった。

それが何故か1991年、79歳になって『戦争と青春』を撮った。製作の動機を訊かれても「早乙女勝元さんの、たっての要請があったので・・」と語るだけだったという。全国各地の試写会会場での挨拶がスゴイ。「今井です・・止しゃいいのにひでえシャシンをつくりやがって、爺引っ込め! なんて言われないように、駑馬にムチ打って一生けんめいつくりました」が挨拶の決まり文句。

作品のテーマとか演出の意図なんてものは喋らない。監督に言わせれば「そういう押し付けがましいことを言うのは観客に対して失礼だよ。映画は1人ひとりが、それぞれ自由な立場で観ていただればいい。だから、監督はただ黙って頭を下げるだけでいいんだ」と言うことになる。


よく記者会見があると、出来上がった作品に対する自己採点の質問が飛ぶ。このとき今井監督の顔から笑顔が消える。「僕は撮影中でも、毎日が失敗の連続で、明日こそもっとましなカットを撮ってやろうと思いながら、遂に撮影を終えてしまう。だから、出来上がった作品はいつも失敗だらけの作品だと思っている。それでも、この次こそなんとかうまく撮ってやろうと向上心を燃やしてきたから、これまで監督を続けてこられたと思っている」-Steve Jobsの“Stay Hungry. Stay Foolish”に酷似する精神だ。
『戦争と青春』が遺作となってしまった今井監督、20年前大手映画会社の製作本数の激減と若者の邦画離れについて厳しく叱咤した。「そういう時代だからこそ、もっと監督たちが勉強して、質の高い映画を創らなきゃダメなんだ。人間をもと深いところまで見つめ、じっくり掘り下げて描いた作品が少なすぎる」-同監督の遺言と受け止めるべきだろ。



ボクにとっては、八海事件をモデルに描いた「真昼の暗黒」、「夜の太鼓」「キクとイサム」「武士道残酷物語」「仇討」「橋のない川」など50年代〜60年代後半の秀作が今なお記憶に鮮明だ。
同じ社会派の双璧、山本薩夫監督は最後まで娯楽モノの大作を連発し大ヒットした。その点、今井監督の晩年は不遇だったと言えよう。

山本監督が巨匠だとすれば、今井監督はイブシ銀の名匠だった。