トラがネズミに命乞い--遠い“アラブの春”

1969年軍事クーデタにより王制を倒したMuammar-el-Qaddafiは英雄としてLibyaに君臨した。“リビア最高指導者および革命指導者”の称号のもと一般民衆には“敬愛なる指導者”(The Brother Leader)とまで呼ばれていた。


が、その正体はTyrant以外の何者でもなかった。一握りの親族・縁者で権力と富を独占しお茶坊主たちを側近に、親衛隊と秘密警察が国の隅々にまで目を光らせる密告社会に仕立てた。専制政治に対する反対・批判はいっさい許さない。弾圧と拷問が待っている。今日の友人が明日の敵となる。互いに隣人同士疑心暗鬼に陥る。かつてのスターリン体制顔負けの世界でも稀に見る恐怖政治を40年以上も続けた。

いつの時代にあっても独裁者の末路は哀れだ。「絶対に祖国を離れない。生か死か。それが唯一の選択だ」と豪語してきたQaddafiに親衛隊のリーダーでQaddafiの従兄弟でもあるMr Dhaoと側近たちはQaddafに権力の座から降りるか国を脱出するか何度も説得したが、次男Muatassimとともにこの選択肢を拒否した。

Qaddafiの側近中の側近として人民に対する血の弾圧を率いたとされるMr Dhaoは現在負傷・拘束の身にある。Human Rights Watchとのインタビューの中で、住民への攻撃を指示したことはないと弾圧行為を否定。自己弁護に懸命だ。
Qaddafiは自らに叛旗を翻した無数の人民を<ネズミ>だと切り捨てるのが常だった。祖国にとどまるのが“a moral obligation”(道義的責任)だとして、その意思を貫徹しようとしたという。Qaddafiは、自らの断固たる意思が投降を拒ませ、“My courage failed me”(我が勇気が自分を失敗に導いた)とある時強弁していたらしい。

かかる勇猛果敢なはずのQaddafiの最期の数日はどうだったか。逃亡すべきか否か迷いに迷っていた。取りまきに命じ、毎日空き家に入らせ米やパスタを漁らせる有様だ。挙句は“電気がなぜないのだ”“水はどうした”と周章狼狽
20日、逃げ場を無くし土管の中に潜んでいたところを拘束されたとき、≪撃たないでくれ。わが息子たちよ≫と懇願した。≪アラブのトラ≫が“ネズミ”に命乞いというワケか・・?

この2月からのリビアの反カダフィの闘いはなんだったのだろう。内戦にまで発展しかねなかった泥沼の血で血を洗うようなrevolution。Qaddafiを葬ったことにより人民は歓喜に沸いた--「喜びは言葉で言い表せない。自由を勝ち取った」President Obamaは「民主化を求めるリビア人民の勝利だ」と称賛し歓迎する。他の諸国首脳も口を揃えてリビア全土の解放を大歓迎。≪アラブの春≫の到来に期待する。



が、自由を手にしたリビア国民にとって難題山積だ。主たる市街地は内戦の傷跡が生々しい。
何よりも「言論の自由」のもとに新たな試練が待っている。
1989年〜91年に連鎖的に起きた東欧革命の例をみれば歴然とする。流血を見ることなしに民主化を成し遂げた91年のチェコの「ビロード革命」も、その後の人心はどうだっただろう。


1999年11月17日付Y紙の<欧州の『壁』が消えて10年>が当時のチェコの現状を伝えている--
言論の自由を手中にし、情報化の浸透で様々な娯楽・富を得る機会に近づけるようになった国民は、息苦しい旧体制下で一片の真理を求めてハベル氏(現大統領)らの言葉に熱心に耳を傾けた人々とは異なる」


「ラデク・ヨーン(チェコのジャーナリスト)さんは『以前は、ほんの2・3行の真実を探して市民は活字をむさぼるように読んだ。革命後は、何でも書けるようになったが、誰も読まなくなった』と嘆く」