句あり可笑し句もあり


“まくら”の名人小三治師匠も「オレは俳句に向いてない」と仰る。やなぎ句会で今年の正月、『炬燵』というお題がでた。イメージが沸かない小三治師、締切り時間間際に苦し紛れに創った句----


昔こたつという弟子がおりました
師匠自らが自評している--「他人様がこの句を見て何と思うか? なんて考えたら句会で発表など出来ない。ひとにはわからなくていい。自分で思い巡らすとまだまだいくらでも、汲めども尽きることはない。その頃の小三治。今の小三治。どういう心の変遷をたどって今日迄きたのか。行方不明の一番弟子のこたつから自分は何を教わったのか、教えられたたのか。こう考えると、
  昔こたつといふ弟子がをりました
深い句だ」

<俳句はおかしみの文芸>(天野天佑)だとも言えよう。“俳”は「おどけ」とか「たわむれ」を意味する。
秋を詠んだ子規の句が面白い。

  一日は何をしたやら秋の暮
<秋の日はつるべ落とし。それにしてもきょう一日、いったい何をしていたんだろう。いいねえ、こんな一日も>(天野天佑)となる。
  書読まぬ男は寝たる夜長哉
<秋の夜長に寝不足になる人。秋の夜長に寝過ぎになる人。世の中はこの二種類の人間でできあがっている>(同上)

ボクはこのところ本読みより、PCのキーボードとNetでの調べモノで慢性寝不足だ。可笑し句もある。