放射能の邪悪さをボクたちは忘れていたのか?

本日A紙<読書>欄での同紙編集委員の指摘を待つまでもなく、近頃の書店には新刊の原発本が山積みだ。大半は3/11後に出た本だが、いま読んでいる3/11の現地ルポ『津波原発』は別格だ。著者の佐野眞一氏が執筆の動機を語る。

「この話が編集部からきたとき、最初断ろうかと思った」という。大病を患い手術、病み上がりで体調が万全でなかった。被災地の取材中倒れでもしたら迷惑をかける心配があったからだ。その同氏が「何とか気をふりしぼって現地にでかける気になったのは、1つにはこの千年に一度といわれる大災害に対する著名人のコメントに怒りを覚えたからである」

佐野さんは、3/11に臆面もなく四選出馬を表明し、その三日後「これは天罰。津波をうまく利用して日本人の我欲を一回洗い落とす必要がある」と言ってのけた都知事の傲慢さに政治家失格の烙印を押した。

 ノンフィクション界の巨匠の書き下ろしの本書は現地に足を運べないボクらにとっては必読書だが、書店にずらりと並ぶのはほとんどがいわゆる後知恵モノだ。


その点注目すべき3/11前に出ている原発本がある。『原発事故はなぜくりかえすのか』(岩波新書)。若いころ原子力企業に勤めていた著者の高木仁三郎氏は振り返る--「(この業界は)議論なし、批判なし、思想なし、の状態だった」

 原子力イデオロギーの技術だと位置づける書もある。Freeman Dyson:Imagined Worlds(邦題『科学の未来』)。理論物理学者の著者は「広島・長崎の廃墟の中から何か平和的かつ有益なものをつくりだしたいという強烈な願望」が凝り固まった信念に化けた云う。そのイデオロギーが政界の思惑と絡み、国の科学技術政策の柱となり、産業界と結びついたというわけだ。


声高に原発反対を叫ぶつもりはない。原発そのものを悪と決めつけられない。が、放射能の邪悪さについて日本人は骨の髄まで知り尽くしているはずだ。