・・・・・代わりに生き直さなければ...

“亡くなられた方々”のお名前が今日も37頁(A紙)の左隅に敬称略で掲載されている。犠牲者が1万5千人を超え、行方不明者がおよそ9千人。犠牲者が見つかれば、行方不明者の数が減ってゆくのか。ボクにはそう思えない。

今なお肉親を捜し続ける方たちがいる。哀れでかける言葉が見つからない。が、肉親を捜すその肉親さえも不明、つまり、生死はおろか行方不明か否かさえ判らないケースがあるだろうと想像されるほどの惨状を3/11大震災は呈している。津波に呑み込まれた町は目の当たりにすれば、「復興」とか「がんばろう....」などと言葉が空疎で、絵空事にしか聞こえない。
“2・3号機メルトダウン 東電、報告書で認める”--相も変わらぬ主要紙の一面、原発関連記事だ。3/12〜3/13の原発事故の真相だ。メルトダウンは判っていたはずなのに「タービン建屋云々....」で誤魔化したわけだ。


本邦のleading paperが発する情報と被災地の現実とのズレは明らかだ。不意打ちのように自然が我々に突きつけた夥しい死という現実にメディアは向き合うことを避けている。現代に生きる私たちは日常の中から死を隠蔽しがちだ。
芥川賞作家となった朝吹さんは「回避不可能な危機に瀕したとき、私は大江さんを読みます」と云う。
“意志的楽観主義”を説く大江さん、「震災による死者は生き直すことができない。しかし、生き残った私らは死者の代わりに生き直すことができる」と。


希望の言葉として聞き取れる。人間の世界に新しいものを持ち込む若い人、つまり大江さんの自著「『新しい人』の方へ」が求められてくる。

“もし若者が行なえたら、もし老人が知っていたら”(渡辺一夫)---これこそ、こんにちの我が国の窮状だ。