“自制”と異なる行き過ぎ自粛--“自縮”につながる

東日本大震災に鑑み、花見の宴はご遠慮願います」

“花見酒”の自粛を促す看板が靖国神社に掲げられている。

「同胞の痛みを分かち合うことで連帯感がでてくる」と石原都知事。なるほど名文句だが、岩手県の酒造屋さんは「被災地以外では普通に花見をしてもらう方がありがたい」と呼びかける。桜の下で飲んだくれてドンちゃん騒ぎはよくない。控えめにすべし。これをself-restraint(自制)という。

都内も桜満開だが、中学・高校の入学式の式辞や祝辞に桜花爛漫なる季語があまり聴かれない。「おめでとうございます」は禁句になったのか?

昨日も某私学の入学式に招かれたが、新入生の会場への入場時、拍手は禁物。壇上から来賓紹介されたがただ無言のまま頭を下げるだけにとどめるべしと“お上”からお達しがあった。ご祝儀と桜餅を手土産に持参したがこれも不謹慎なのか。節電は大いにするべし。水の無駄遣いも控えよう。
が、昭和天皇重篤1988年(昭和63年)じゃないが、日本人特有の≪集合的無意識≫による自粛・自粛はいかがなものか? 我が国の社会活動の経済活動も、モノの流通が“自縮”してしまう。shrinkしたところで罹災地のへの支援にはならない。

“My heart goes out to the people of Tohoku during the enormous tragedy ”がボクたちが持ち続けるべき心情だろう。大切なのは被災地に対する想像力、被災者に寄せる心、“持続する真情”だ。