災禍と惨劇---open doorと触れあい

95年1月17日から16年を経た。その年度末(96年3月)、ボクは次のような一言を若者に投げかけている。
「この1年ほど、私たち日本人のこんにちのあり方が根底からから揺さぶられた年はありません。あの二つの出来事は、間違いなく、後世の歴史書に、それも世界史のなかに、20世紀末の『災禍』として記述されるでしょう」
“あの二つの出来事”とは阪神淡路大震災と同年3月下旬に起きた偽宗教団体による地下鉄サリン殺人事件である。95年はまさにhorrible disastersの年だった。




 それから5年を経て、21世紀の幕が開いた。その年(2001年)、職場がある街のcivic journalに次の一文を投じた。
「五年前の阪神淡路大震災の惨状は日本の都市の安全神話を突き崩した。そして、この六月に起きた大阪の小学校での惨劇は我が国の学校の“安全性”を大きく揺るがせる結果となった。いま、学校では、公私立を問わず、学校開放と学校安全の両立は果たして可能かが鋭く問われている。・・・が、セキュリティ上の問題として学校の安全対策を講じることは当然とはいえ、開かれた学校づくりと今回の事件とは次元の違う問題ではないかと思う。むしろ安全性確保のためにも、学校をより開かれたものにすべきではなかろうか。

 このように考えるのは、二年前、米国のColorado州Denver郊外の公立高校で起きたあの悲劇(銃乱射事件)を想起するからである。惨事を招いた町リトルトンは、人口四万足らずの閑静な分譲住宅地。学校周辺には画一的な住宅ばかりが建っている。住民は閉鎖的で冷淡。よそよそしさと刺々しいムードが漂う街。子供達は外で遊ばず、隔離された家の中でビデオゲームやインターネットと睨めっこしている。そのような環境の中で起きた事件だった。事件直後のショックが過ぎたあとThe Washington Post紙の記者が『あの襲撃事件はなぜかこの街の雰囲気に似つかわしく感じられる』と語っていた。



あのリトルトンの公立学校には学校文化があっただろうか? そして街の文化は? 互いに隔絶しあう関係ではなかったか。ここでいう文化とは、そこに住む人たちの望ましい触れあいがベースとなるものである」
 16年前の阪神淡路の災禍の跡にはヒューマニズムに満ちた触れ合いがあった。世界から称賛された日本人特有の耐性と恥じの文化の発露があった。
 Tucson Tragedyの街は冷淡なムードはなかったはずだが、刺々しい政治風土が醸成されていた。そこにa lone wolfのgunmanがつけいった。時空を超え、それぞれの風土が惨劇が生むのはいつの時代にあっても同じだ。