暮色点描(続・終章)

昨夜Vice-President Joe Bidenのメッセージに添付され、President ObamaのThank-You Cardがメイル配信されてきた。来年に向け、支持者への深甚な謝意が記されている。

いまW大学在学中、平成生まれのMr R.Aの中篇小説を読む。某文芸雑誌の新人賞受賞作だ。17歳高校生の何でもない日常生活が描かれている。ボク自身、長い間の職業柄わかっているようで解っていない今時の高校生の心ざまが見事にスクリーンに映写されている。

特に印象深い、また、身につまされる断片を拾ってみる。
高校の映画部員たち--
「誰もいない夕暮れの教室とか! 雑談しながら階段を上っていく女子のカットもいいよなー! 僕らは思い思いに意見を言いながら、とにかくカメラを持って外へ飛び出した。カメラがどんどん軽く感じられる。僕らの物語に乗っかってしまえば、こんなもの全然重くない。
飛び出す、という言葉を僕達は体現できる。十七歳のこの瞬間だけ。
僕はこの瞬間が一番好きだ。世界で一番最高の瞬間を、映像として、僕らが切り取る。」「・・今僕が見ること、聴くことができる全てが、それぞれの目標に向かって生きているように思えた。それはとても美しいことだった。
『なんかやっぱりいいな、高校って』」--高校の映画部員の活動を通しての心理だ---
学ランを着崩している仲間を見て---
「今いち『エレガント』の意味もわからないままに、俺は思う。未だにたまーにいるんだよな、不良っぽく着ればかっこいいって思ってる奴。意味わかんねーダセーほんとに平成っ子ですかー・・」

17歳の普通の高校生なんてこんなものだと---
「俺達はまだ十七歳で、これからなんでもやりたいことができる、希望も夢もなんでも持っている、なんて言われるけれど本当は違う。これからなんでも手に入れられる可能性のあるてのひらだけがあるだけで、今は空っぽなんだ」
「この教室だけじゃなくて、今全教室で黒板に対している何百という背中には、どっぷりと何百種類という未来が載っかっていて、何百種類という道筋にそれは分れていく。そうやって考えると、高校ってなんだか楽園のようだ。
いつまでも今のように守られたまま生きていけるわけじゃないし、俺はとりあえず東京のそれなりの私立に行きたいし、だけど、大学行って、俺は何を・」

さて本日で今年のとりとめなく拙い綴りもおしまいだ。
山田風太郎は『戦中派不戦日記』のなかで1945年敗戦の年の大晦日を呆然と締め括っている--
三十一日(月)大雪
「運命の年暮るる。日本は亡国として存在す。われもまたほとんど虚脱せる魂を抱きたるまま年を送らんとす。いまだすべて信ぜず」
開戦の年の41年の大晦日荷風の「断腸亭日乗」は世情を冷徹に記す。

  門松も世をはばかりし小枝かな
十二月三十一日。晴。厳寒昨日の如し。夜浅草に至り物買ひて後金兵衛に夕餉を喫す。電車終夜運転のはずなりしに今日に至り俄に中止の由、貼札あり。何の故なるを知らず。朝令暮改の世の中笑ふべき事のみなり。(中略)
帰宅後執筆。寒月窓を照す。寝に就かむとする時机上の時計を見るに十二時五分を過ぎたるばかりなれど除夜の鐘の鳴るをきかず。これまた戦乱のためなるか。恐るべし恐るべし」

寒月といえば藤沢周平さんの秀句が口をついて出る。
  軒を出て狗寒月に照らされる


本日夕刻、柴のHannahに連れられ散歩納めをした。去年の年の瀬に生まれ、やっと1歳になったHannahだ。数え年なら一夜明ければ明日三歳に・・。

最後に久保田万太郎の三句---
 寒の月夜のひきあけに残りけり
 ゆく年のひかりそめたる星仰ぐ
 湯豆腐やいのちのはての薄明かり