The Attack on Pearl Harborとその翌日

昨8日、The Attack on Pearl Harborから61年目を迎えた。

別称、The Hawaii Operation by the Japanese Imperial General Headquarters(日本帝国大本営によるハワイ作戦)ともいう。米国側からの呼称だ。


「12月8日。褥中小説『浮沈』第1号起草。晡下土州橋に至る。日米開戦の号外出づ。帰途銀座食堂にて食事中燈火管制となる。街頭商店の灯は追々に消え行きしが電車自動車は灯を消さず、省線は如何にや。余が乗りたる電車乗客雑沓せるが中に黄いろい声張り上げて演舌をなすものもあり」
荷風の『断腸亭日乗』。激情などまったくない淡々とした風景描写だ。


清沢冽は「けさ開戦の知らせを聞いた時に、僕は自分達の責任を感じた。こういう事にならぬように僕達が努力しなかったのが悪かった」と自責の念に駆られている。
午後8時45分、ハワイ開戦の詳報第一報が大本営が発表。最後を「本日全作戦においてわが艦艇損害なし」と結んでいる。
国民の99%までは勝利に有頂天の夜を過ごした。
「生きているうちにまだこんな嬉しい、こんな愉快な、こんなめでたい日に遭えるは思わなかった」と54歳の作家長与善郎。
評論家浅野晃は「その夜は、近所の水野成夫君の宅で夜を徹した祝盃を挙げた。御稜威のもと、生きてこの盛事に逢うことの出来た悦びをくり返し語り合った」と書いている。
8日の終り近く、山本五十六連合艦隊司令官は「長門」の自室で一人静かに筆を走らせていた。

「述志 昭和16年12月8日
 此度は大詔を奉じて堂々の出陣なれば、生死共に超然たることは難からざるべし。ただ此戦は未曾有の大戦にして、いろいろ曲折もあるべく、名を惜み己を潔くせむの私心ありてはとても此大任は成し遂げ得まじとよくよく覚悟せり。されば、
  大君の御楯とたたに思ふ身は
  名をも命も惜しみまさらなむ
        山本五十六 花押」
岩波書店小林勇は、幸田露伴の蝸牛庵にいた。
「先生は終日階下の室にいた。そこで戦争の話をしたとき、先生は『若い人たちがなあ』といい、涙を流した」
そして露伴先生は「もったない」といって涙をこぼしながら、娘の文にいった。「考えてもごらん、まだ咲かないこれからの男の子なんだ。それが暁の暗い空へ、冷や酒一杯で、この世とも日本とも別れて遠いところへ、そんな風に発っていつたのだ。なんといっていいんだか、わからないじゃないか」


翌12月9日の荷風「断腸亭日条」--
「くもりて午後より雨。開戦の号外出てより近鄰物静になり来訪者もなければ半日心やすく午睡することを得たり。夜小説執筆。雨声少々瀟々たり」

61年後の本日、米日の合同軍事演習。原子力空母George Washingtonの威容・威力は戦艦大和と月とスッポンだ。韓国軍が加わり、米日韓の連携強化とか。朝鮮半島海域はキナ臭く、天気晴朗ナレド波タカシ?