人生に対する矜持

“社会的弱者、差別された側にたつ新しい『民衆派作家』像”。辻井喬氏の近著「私の松本清張論」の表紙の帯のキャッチコピーである。

辻井氏は「大衆的な“正義感”のようなものに訴える大衆性があるのではないか」という観点から清張作品を読み解いている。清張は推理小説の形で「我が国の近代文学が欠落させた部分を補う役割を果たしたのではないか」と同氏は分析。文学がこの社会のなかで何ができるのかをもう一度考えるきっかけを与えている。
清張自身「私は、自分のことは滅多に小説に書いていない。いわゆる私小説というのは私の体質には合わないのである」と『半生の記』のあとがきで述べている。そんな清張が58年に「学歴の克服」、62年に「実感的人生論」を著している。いずれも婦人公論に掲載、50歳前後のエッセイだ。

現代の若者必読の書と云うべきだ。双方ともリアリティが胸に迫るものがある。清張は『赤貧洗うが如しというほどではない』が、家が貧しく上級学校に進学させてもらえなかった。小学校卒である。学校の成績が優秀だったので、担任が、清張を中学(今の高校)へ進学させるよう親に薦めるため家庭訪問したところ、家の土間と上がり框にナメクジが這っているのをみて、薦めるのを止めて帰ったという。

清張は語る「私の学歴は小学校卒である。この小学校卒で私はかなり情けない差別待遇を受けてきた。しかし、小学卒ということで一度も自分が恥ずかしいと思ったことはない。たまたま家が貧乏だったために上級の学校に入れなかっただけである。・・・家の貧乏というのも、これまた学歴のない両親に原因するかもしれない。・・母は小学校のときに教師に叱られ、それを怒って母は学校に行かなかった。それで私の母は一丁字がなかった。
母はあらゆる苦労を重ねた。父が生活的に不運だったせいで、・・・遂には魚の行商までするようになった。だが、そのような貧乏の最中でも、私はよそ行きの着物と、自分の外出着だけはちゃんと作っていた。・・・今になって考えると、母にはよそ行きの着物があることが生活上の大きな安定感になっていたのではないかと思う。つまり、どのように貧乏していても、いざという時は人並みの着物を着て付き合えるという心の張りである。・・外出着一枚を持っているということがいつも母の人間的な矜持を持たせ、そのことによって転落して行きそうな自分を抑止していたのではないかと思う」
そして父親のことも語っいる。

「父もやはり小学校しか出ていない。性格は楽天的で呑気坊主だった。そのため何をしてもうまくいかない。・・
しかし、父は本と新聞を読むのが好きだった。どんなに貧乏していても、新聞だけは必ず二紙配達させていた。その商売が全盛のときは、たしか三種類か四種類の新聞が配達されていたと思う。父は私が13、4ぐらいのときに新聞を読むなら第一ぱんに政治面から読め、新聞を手にとって三面を開くようでは人にばかにされる、と云ったことがある」
来春卒業予定の大学生の就職率は現在6割に届かない。高卒の就職内定率も低迷している。未曾有の就職氷河期にある。そうした世情のなかで、何故か
新聞をとっていない家庭が少なくない。たまに親父がスポーツ紙を買ってくるという。通学車中、新聞を読んでいる学生はまず見られない。大人も若者も携帯に夢中になっている。電子活字をいいが、紙の活字に触れない日常生活は危い。経済困窮者だけでなく高学歴者も人生の矜持を果たして持っているのか。


清張の青春は暗かったに違いない。が、貧困家庭にあっても父母の生き方と背中を少年清張はじっと見て感得していた。父母から得た貴重な教訓が民衆派大作家を育てたと云うべきだろう。