逆境こそチャンス−−生誕100年を迎えた人間派の“薩ちゃん”

昨年生誕100年を迎えた松本清張さんが山本薩夫監督の告別式で弔辞を読んだ。27年前(1983年)の夏、青山斎場。
今年7月15日が山本薩夫監督生誕100年。享年73才。多くの映画関係者やファンが反骨精神の熱血監督の他界を惜しんだ。


ああ野麦峠』で主演を演じた大竹しのぶさん(当時22才)が原稿なしで涙に暮れながら監督の遺影に語りかけていた。



社会派作家として一世を風靡した清張氏が社会派監督の最高峰の一人山本監督に弔辞を送るのはまことに相応しいというべきだろう。
監督は亡くなるまで数々の苦境にぶつかり、貧困も経験し、それらを剛速球ではねのけてきた。
山本監督の「死ぬまで持ち続けた国家権力に対するものすごい抵抗感」の発端は22才のときだ。軍事教練に反対する集会に参加、官憲に逮捕、取調べをうけ収監され、早稲田大学を退学処分となった。
その後、苦難は続く。33才で徴兵、佐倉連隊に送られ、外地中国へと。下級兵だった彼に待っていたのは連日の下士官・上官からのリンチである。
この体験が原点となり、1952年『真空地帯』の製作に結実し、監督自身にとって“反戦が生涯のテーマ”となったのだ。
山本監督の逆境は続く。あの有名な東宝争議に加わり解雇。その後、いわゆる五社協定六社協定で映画メジャーから締め出され、独立プロづくりを余儀なくされる。五社、六社の映画会社と専属契約を結んでいる俳優は使えない。撮影所も契約映画館も持ち合わせていない。貧乏監督の代表格だ。
農民達に10円カンパを募って、農村映画『荷車の歌』(1959年)を完成した。


名優望月優子さんや少女時代の左時枝さんが登場している。中でも20代〜70代までを演じた三国連太郎さんが凄い。歯を8本ほど抜いて老人の役をメークした。この『荷車・・』だが、上映してくれる映画館がないので99台の映写機をもって全国巡回、延べ1000万人の国民が観た。農村映画の最高峰としていまも刻印されている。



山本監督は単なる反体制の社会派映画人ではない。人間の本質を抉り、世相を真正面からあぶりだすエンターテナーだ。作品に圧倒的な面白さがある。自然と監督の周囲に優れたスタッフが集まってきた。
大手映画会社も同監督を無視できない。大映、日活などが製作を依頼してきた。市川雷蔵の『忍びの者』『氷点』『白い巨塔』等々を製作した。


が、かかるメジャーお抱えの大作、娯楽モノは収益は上がるが、同氏の目指す作品とは違う。そのジレンマと悩みははかり知れないものがあったろう。
山本監督はチャップリンを映画人としての師と仰いでいたという。

大作『白い巨塔』『華麗なる一族』などの作品で縁深い作家山崎豊子さんが病室で山本監督の言葉を伝えている。

「面白くなかったら意味がない。大衆にヒットしなかったら何にもならない。社会派とか何派とかそんなものはないのです。僕たちは人間派だよな」そして山崎さんは「山本監督も私も本当に人間に徹する意味で人間派と言った方がいいと思います」と語っている。
三国連太郎さんは監督のことを“薩ちゃん”と呼んでいる。
反権力の職人、山本薩夫監督はいつも笑顔が似合った。次々と襲いかかる逆境をはねかえしてきたからだろう。