晴れぬ霧

霧が晴れぬまま大相撲名古屋場所(The Nagoya Grand Sumo Tournament)が明日初日を迎える。

NHKがTV中継を自粛するという。まだTVが民家に普及していなかった50年代初頭、夕刻になると大人も子供も街の電気屋さんや蕎麦屋さんに群がったものだ。双葉山が引退し、羽黒山、東富士、照国、千代の山などが横綱として活躍した全盛時代だった。二所関部屋を継いだ業師佐賀の花が大関から陥落して引退。その後技巧派横綱栃錦若乃花、いわゆる栃若時代に相撲界が沸いたころ、ボクは“内掛け”琴ヶ濱の大ファンだった。


この小兵関脇が大型力士を必殺左内掛けで倒す場面は爽快だった。怪力横綱朝潮との優勝決定戦に敗れたものの大関に昇進した。引退後尾車親方として後進の指導に当たったたが、53歳の若さで他界した。琴が濱は現役時代、猛稽古で知られていたが、弟弟子琴桜を熱心に育てた。おかげで遅まきながら横綱に上り詰めた琴桜。前佐渡ヶ嶽親方である。名師匠で知られた前佐渡ヶ嶽は、現役時代に次々と内弟子を育て上げた。そのうちの一人が琴光喜である。2007年琴欧州に続き、愛弟子琴光喜が悲願の大関昇進を果たした。その昇進伝達式の20日後、前佐渡ヶ嶽が息を引き取った。通夜・告別式での琴光喜の憔悴した姿が忘れられない。



琴光喜は年齢からみて横綱への道は難しかったろ。が、その玄人受けする力と際立ったワザを有する名大関として後世に名を残したはすだ。佐賀の花、琴ヶ濱など名人を輩出した二所一門の伝統を継承したはずだ。
それがgambling scandal角界追放になろうとは痛恨の極みだ。背景にJapanese gangstersなど反社会組織が介在しているという。
黒幕は誰だ。黒い霧は晴れない。真面目な関取、力士、大相撲関係者こそ哀れだ。
43年前の布川事件の再審初公判が始まった。大嶽親方もそうだが琴光喜に対する極刑はいささか過酷な気がする。布川事件にも真犯人がいるはずだ。今度のgambling scandal on JPBにも黒幕がいるはずだ。
戦後最大の「黒い霧」は帝銀事件だろう。 “犯罪史に残る大量毒殺”(夏樹静子氏)は1948年(昭和23年)八月テンペラ画家平沢貞通の逮捕以来、マスコミも世論も平沢犯人説に染め上げられ(夏樹静子氏)、55年4月8日、最高裁が死刑の判決を言い渡し、「上告棄却」。同年5月7日死刑が確定した。平沢はすでに63歳になっていた。弁護側は以後、30年間に計18回の再審請求を行なったが、棄却された。


「実際、平沢が逮捕されるまでに容疑の対象となった全国の警察に調査された約5000人は、全員が共通して、医学に関わりがあった。ただ一人平沢だけが、全く医学経験のないテンペラ画家だった」(夏樹静子氏)
63年、松本清張氏が仙台拘置所を訪れ、平沢に面会し、好物のレモンを差し入れした。その返礼に平沢は獄中第516作の『白樺林』を清張氏に贈呈したという(同上氏)

松本清張氏は「日本の黒い霧」≪帝銀事件の謎≫の冒頭部で述べている−−
帝銀事件の犯人は、最高裁の判決によって平沢貞通に決定した。もはや今日では、いかなる法律手続によっても彼の無罪を証明することは不可能である。云いか換えれば、法務大臣の捺印があれば、いつでも彼は絞首台に上る運命にある』(再審請求が弁護人側から出されているが必ずしも刑の執行を拘束しない)
1982年5月10日、平沢貞通は八王子医療刑務所で、病死した。享年95歳。肺炎による牢死だった。

遺骨は7月11日、故郷の小樽へ帰った。≪出所の節は第一に小樽に帰省、父母の墓詣をしたく存じます。無実を信じていた父母の墓、音を立てて揺れること存じます≫−−平沢は生前こうした手紙を多くの支援者に送っていたという(夏樹静子氏)
松本清張氏は≪帝銀事件の謎≫を次のように結んでいる−−
帝銀事件は、われわれに二つの重要な示唆を与えた。1つは、われわれの個人生活が、いつ、どんな機会に≪犯人≫に仕立て上げられるかも知れないとという条件の中に棲息している不安であり、1つは、この事件に使われた未だ正体不明のその毒物が、今度の新安保による危惧の中にも生きているということである」
47年前の清張氏の言葉だ。時代は変遷したが、いま論議を呼んでいる沖縄の米軍基地問題もその源流は日米安保、日米同盟にある。
時代は変わろうとも日本には晴れぬ黒い霧があちこちに漂っている。
大相撲名古屋場所を前に、故郷岡崎市の体育館に掲げられていた≪前頭 琴光喜 平成13年9月場所優勝額≫が取り払われた。琴光喜は凶悪事件の黒幕でもないのに無残にも角界から姿を消すことになる。