“故郷はつらい土地”なのか・・

藤沢周平記念館が鶴岡市(山形県)に完成した。

周平さんの文学・業績・人柄をふるさと荘内の知的風土、作品の土壌とともに紹介する記念館で、小説の「海坂藩」のモデルとなった荘内藩の鶴岡ケ城跡(公園)にオープンした。初日4月29日に1000名、五月連休も来館者で大賑わいだったという。ボクも今年機会をみて出かけてみたい。

が、周平さんご当人は派手なことが嫌いである。よく知られたエピソードだが、湯田川中学で教師をやっていたころの教え子たちが鶴岡市を動かして“先生の文学碑”を建立する計画が持ち上がっている話を聞きつけた周平さんが、「どうしても、在京の連中が作りたいという話を持ってくるだろうが、それが来たら絶対にダメだ、断ってくれ」と釘を刺した。中学時代藤沢先生の薫陶を受けた萬年慶一さんの話だ。萬年さんは地元鶴岡を中心に発足した「鶴岡藤沢周平文学愛好会」の代表であり、「寒梅忌」など様々な活動を主導している。

この“碑が建つ話”だが、「子供たちとの記念碑ということならばいい」という周平さんの意向を重んじ「文学碑」が「記念碑」になったという。
そんな調子の藤沢周平さんだから、今度開設された『記念館』にしたってご本人が存命中だったらどうなっていただろう。ご長女の遠藤展子さんは「“普通が一番”といい、派手なことが嫌いだった父でしたから、生きていたら、記念館は絶対だめでした。でも、みんな喜ぶなら仕方がないといったでしょう」と心境を語る。
97年1月周平さんが亡くなったとき「おっつけ私もそちらへ呼ばれますから」と弔辞を読んだ同郷の井上ひさしさんも先日鬼籍入ってしまった。周平さんのファンだったひさしさんが作成した手書きの“海坂藩城下町地図”も記念館に展示されているというから見ものだ。


周平さんの本名は小菅留治だ。小菅先生が湯田川中学の教師をしていたのは僅か二年間だった。が、教え子たちにとって小菅先生は理想の先生、思い出はつきない。教え子の一人であるOさん(女性)がしみじみと述懐している---
「私は・・一時、今で言ういじめに遭いまして登校拒否が四日ほど続きました。それでも学校下に住んでいましたから、家にいても生徒たちの声が聞こえるんです。放課後、学校の正面の石段を上りますと、すぐ右手のほうに体育館がありまして、そこで生徒たちが遊んでいるのじっと眺めていましたら、小菅先生が私を見つけて『祥子、どうしてる、先生は待ってるぞ、出ておいでよ』と声をかけてくださいました。
それまで、家に閉じこもっていました、先生がそうおっしゃって下さったのがきっかけで、翌日から学校に戻ることができました。親にもいじめられたことは内緒にしていましたので、『出ておいでよ、先生は待ってるぞ』といわれた言葉は、今もって心の中に強く残っています」(「海坂藩はるかなり」より)
周平さんのエッセイには故郷・荘内に対する愛着が滲み出るモノが多いが、他方、故郷で過ごした青春のある時期を悔恨の気持で振り返るエッセイもある。ふるさとへの想いはいかばかりか、心の深淵を覗くことができる。
「いつもそうだが、郷里では私はふだんより心が傷みやすくなっている。人にやさしく、喜びを与えた記憶はなく、若さにまかせて、人を傷つけた記憶が、身をよじるような悔恨を伴って甦るからである」
周平さんは政治問題や政治体制などに深入りすることは稀な作家だった。でも、前世紀末の世界の社会主義国家、特にソ連邦崩壊について91年に語った言葉がある--
「自由と民主主義を抑圧する社会主義らしくない国家が国民から見放されるのは当然です。社会主義に憧れをもった私たち世代には、少し寂しいけど・・。(社会党がダメになって)これからはJCPの時代だよ。しっかりやりなさい」とJCP関係者を励ましたという。

自己に厳しく他者に優しい周平さんだ。あのまま教職を続けていたら理想の教師となったろう。政界のご意見番としても卓見を披瀝したろう。でも、ボクたちにとっての小菅留治さんは、やはり、時代小説の名手、日本語の達人、作家藤沢周平で良かったと思う。惜しむらくは、逝かれるのが早すぎた。