じれったい≪告訴せず、起訴せず≫・・・・

数箇月前にT.K氏が松本清張の作風について語っていた。「これは善人、これは悪人と峻別しない作家」。つまり、“清濁併せ呑む”のが人間の本性たるべきと云いたいのだろう。
「---春が来た東京荒川の放水路で、四十男の水死体が上がった。洋服のポケットには『福山』の木の判コと、比礼神社の鹿占いの骨とがはいっていた。占いは『大吉』だった。他殺の疑いもあったが、結局自殺で処理された。ポケットの判コによって、死体は身元不明『福山某』として仮埋葬された」
1973年、週間朝日に連載された『黒の挨拶』(第1話)を底本とした『告訴せず』の結びだ。なんともじれったくなる社会派推理モノだった。

故塩田庄兵衛さんの清張評は----
「・・私の理解では、“素朴で円熟した正義派”という立場である。松本さんのばあい、“素朴”と“円熟”とは矛盾しないと考える。
 自伝的な作品『半生の記』を読んで知ったののだが、松本さんは家が貧しかったために小学校だけの学歴しかなく、広告デザイナーとして未来に希望のもてない勤め人生活を送っていた。必ずしも作家志望ではなかった松本さんが、小説を書き始めたのは40歳を過ぎてからであり、作家として独立の生活を持つようになったのは五十歳近くなってからである。『暗夜行路』という副題でもつけたいような『半生の記』を読んでいると、ゴーリキの『幼年時代』や『人びとのなかで』、『私の大学』を思い出す。ということは、厳しい人生修業が、松本さんにとっては文学修業になり、社会と人間を見る眼をみがき“円塾”させたのだと思う。世の中は、上から見下ろしてもよくわからないが、下から見ると正確に見えるものらしい。
しかし松本さんは、いい意味で“苦労人”ではあっても、よくあるすれた、ひねくれタイプとは無縁である。まっすぐにものごとを見すえ、すなおに本質を感じとる澄んだ眼とやわらかい心との持主だという意味で、“素朴”と表現してもいいだろうと思う」

DPJの闇将軍O氏の政治資金規正法違反事件で、検察庁がO氏を不起訴処分にした。
もし清張さんが存命ならば、この事案をどうみるか。


O氏は、この不起訴処分を盾に、≪潔白≫を主張し、事件を闇に葬ろうという魂胆だが、ふざけた話だ。まさに事案を、検察とグルになって上から見下ろしている。下から見直す方法はないのか。明石市の歩道橋事件と同じように、国民参加の制度というべき≪検察審査会≫が機能して強制起訴に持ち込んでほしいものだ。推理モノと同様“起訴せず、告訴せず”では済まされない事件だ。