浮遊する世代、沈殿する社会のネーミング

12年前、『学校を救済せよ』なるエキサイティングな教育関係書?のなかで初めて「成熟社会」という用語にお目にかかった。異色の新進気鋭の社会学者M氏と割と信頼できる教育評論家O氏との共著によるものだ。

「大人のいない国--成熟社会の未熟なあなた」なんていう珍題の書もでているが、英語で言えばsocial maturity、 元をただせば、ハンガリー生まれの英国の物理学者Dennis Gaborの未来本『成熟社会』を起源とする用語。「量的拡大のみを追求する経済成長が終息に向かう中で、精神的豊かさや生活の質の向上を重視する平和で自由な社会」を意味するものだった。

が、M氏は前掲の「学校を・・」の前書きのなかで≪「成熟社会」(成熟した近代)に適応できない学校≫と題して次のように述べている--
「この本は、今日の学校が果たしている『マイナスの諸機能』を徹底的に明らかにし、『具体的な代替案』を次々と提案していくことを目的にしている」
「このマイナスの諸機能には、教員・役人・親が『子供に良かれ』『社会に良かれ』と思って実行しているプログラム自体によってもたらされているものが沢山ある。現行の学校制度が『成熟社会』の到来を念頭に置いていないことが、最大の理由だ」

そして同氏は『過渡的近代』における教育を切り捨てる。
たとえば、「『過渡的近代』では、大人の言うことを素直に聞く子が『良い子』だと思われたが、『成熟した近代』では、大人が言うことだから、親が言うから、先生が言うからという理由で、素直に言うことを聞いてしまう『良い子』は、幸せな人生を送ることができない」
「『過渡的近代』だったら、社会のために自分を犠牲にしたり、未来のために現在を我慢したりする行動が推奨されただろうが、『成熟した近代』では、こういう態度は社会的・個人的な不利益を招き寄せかねない」

随分過激な論法だが、この発言に拍手喝采している大人や教師や子供が少なくないようだ。いまなお成熟社会なのか、それならば、かかる病める社会における学校教育に効き目のある新薬はあるのか。家庭で大人は親はいかにあるべきか。頭を抱える大人の方がまともだ。
けれども、前掲書でO氏は一味違う的を射た論法を展開している。
「教師たるもの、イヤなものはいや、ムカツクことはムカツクと、最初からもっと自分の感情を素直に出すことが大切ですよ。それを、下手に抑えていいことを言おうとする、カッコイイ実践をしようとするから、自分の行為と感情の間に分裂が起きる。ありのままの自己を見つめないから、まるでアダルト・チルドレンの教師版です。いまや、学校価値を鵜呑みにしてがんばる教師ほど、自己分裂を起して混乱しそうになってるんじゃないでしょうか」


「解決策は、市民生活を確保することと、肩に力を入れすぎたり、力まないことですよ。ご近所づきあいを良くして、肩書き抜きで通用する『田中さん』『山田さん』になれるかどうかです。地域で『先生』と呼ばれて、すぐ振り返るようでは、教育政策がどう変わろうとダメだと思います。
それには、家庭では本当に親バカな『お父さん』『お母さん』に徹しているかどうかも大切なポイントです」
家庭では親バカ丸出しで家内や子供に叱られてばかりいるボクにはお説ごもっとも。我が意を得たりだ。
ところでもう1つ、この頃やたらに浮遊している『ロスジェネ』なる珍語が気になる。用語について少し探ってみることにする。