難題だが考えるべき“人生の時間の使い方”

去年BSの特集番組で米寿を迎えた森光子さんのインタビュー番組があった。、そのとき森さんが日野原重明さんについて「先生は何を言い出すかわかんない方なの」と驚嘆していた。
間もなく100歳を迎える日野原さんの健啖ぶりには舌を巻く。
日野原さんは、自身の転機は、よど号ハイジャック事件に遭遇し、無事に帰還した58歳のときだと振り返る。もう40年も前になる。
同氏が命とはなにかをつきつめる。「命とは自分が使える時間」「死と生は別のものではなく、同じ水平線に続いているものです」「これからの私の人生は、与えられたものだと思いました」と語る。

そして全国の小学校を訪れ、人はどのように生きるかを伝えて歩いている。≪命の授業≫である。
『命はどこにありますか? 命は目に見えません。本当に大切なものは目に見えないものが多いのです』と語りかけ、『命とは自分が使える時間です。その時間を少しでも自分以外の人のために使うことを、これからは考えていって下さい」と結ぶ。
「時間」は古来、多くの哲学者が取り組んできた厄介なテーマだ。が、「時間」とどのように取り組むかで、人の生き方の豊かさが決まってくることだけは間違いないようだ。

日野原先生は、年齢を重ねるほど、真理がはっきり感得され、勇気がわいて、自由になってゆくと言われるが、我輩みたいな“ひよっこ”にはかかる境地はるか彼方の闇の中にある。
闇と云えば、「宇宙の基本が闇であるように、私たちの暮らしの基本も、実は混沌たる闇にあります。私たちの暮らしが基本が光にあると思うのは錯覚で、私たちの知っていることは余りにも少なく、知らないで闇に覆われているいるとことは余りにも多い」と天声人語の元筆者辰濃和男氏は述べている(『私の好きな悪字』より)

ご多聞にもれず闇の中にいる我輩だが、それでも、若者相手に話さなきゃなならないことがよくある。
我輩は心を込めて語りかけたい--「人は自分以外のもののために働いている時、そしてそこに自分がいなければ困るということを感じたとき、最大限の力を発揮できるはずだ」
先の日野原先生ではないが、≪時間を少しでも自分以外の人のために使う≫ことの大切さを実感しつつある。