終戦(敗戦)の日−64年前のあの日の言葉

64年目の8月15日を迎える。

このところ、第二次大戦、太平洋戦争の映像や帰還軍人の体験談の特集番組が目白押しだ。著名人や知識人の懐旧的・回想的な話よりも、当時一兵卒だった数少ない80代〜90代の人たちの、言葉少ない語りが最も強く刻印される。「生き地獄だった」「本当は話したくない」心ならずも重たい口を開く。

1941年12月8日太平洋戦争開戦日に遡るが、岩波書店の創業に携わった小林勇幸田露伴の愛顧を得ていた。当時、蝸牛庵にいた75歳の露伴のことを小林勇が語っている。「先生は終日階下の室にいた。そこで戦争の話をした。真珠湾攻撃の話をしたとき、先生は『若い人たちがなあ』といい、涙を流した」そして、露伴は「もったいない」といって涙をこぼしながら、娘の文にいったという。
「考えてもごらん。まだ咲かないこれからの男の子なんだ。それが暁の暗い空へ、冷や酒一杯で、この世とも日本とも別れて遠いところへ、そんな風に発っていったんだ。なんといっていいんだか、わからないじゃないか」
敗色濃厚になり、すでに潰されていた中央公論社改造社に続き、岩波書店への官憲の圧迫は強まった。45年(昭和20年)5月9日、小林勇特高の手で東神奈川署に拘留された。同氏が釈放されたのは終戦日の二週間後の8月29日になってからである。
15日の終戦の報を聞き言論人・歴史家・作家・評論家などの注目すべき反応を記しておく。
皇室中心主義、挙国一致を喧伝し、戦後公職追放となった言論人・歴史家の徳富蘇峰は「昭和20年8月15日は、実に我が皇国日本に取り、永久に記念すべき悪日である」と『近世日本国民史』に書き入れている。
荷風は『断腸亭日乗』のなかで「曇りて風涼し。・・・午後二時過岡山の駅に安着す。焼跡の町の水道にて顔を洗ひ汗を拭ひ、休み休み三門の寓舎にかへる。S君夫婦、今日ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ。あたかも好し。日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る。休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ」と記す。
当時、信州上田の結核療養所疎開していた東大内科の加藤周一氏の喜びが目を惹く。
「・・今や私の世界は明るく光にみちていた。夏の雲も、白樺の葉も、山も、町も、すべてよろこびに溢れ、希望に輝いていた。私はその時が来るのを長い間のぞんでいた。しかしまさかそのときが来ることは信じていなかった。すべての美しいものを踏みにじった軍靴、すべての理性を愚弄した権力、すべての自由を抹殺した軍国主義は、突然悪夢のように消え、崩れ去ってしまった・・とそのときの私は思った。これから私は生きはじめるだろう。もし生きるよろこびがあるとすれば、これからそれを知るだろう。私は歌いだしたかった」
山田風太郎「戦中派不戦日記」の8月15日、たったひと言で終わっている。
十五日(水)炎天
      帝国ツイニ敵ニ屈ス

今日昼下がり孫娘たちもまじえ身内七人で我が家の庭でBBQ。下からの炭火と上からの炎暑で見事に焼けて美味しく食した。
空を見上げても飛行機雲さえ見られない。平穏な夏日だ。失うにはもったいない。