古いからって捨てるにはmottainaiモノもある

久々の雲ひとつない昼下がりである。外は暑いが湿気が少なくて割と気持ちいい。

昨日、自転車でコンビニに向かう途中、後ろのタイヤがガクンと来た。空気が抜けた途端、自転車が恐ろしく重くなり、ペダルを漕ぐのに汗をかいた。今日、後輪パンクの乗り古したママチャリを近所の自転車さんに持っていった。店の若旦那が一目見て、“総とっかえですね。5,000円でいいですか。3,40分程度で直しときます”
再度店に出かけて外されたタイヤをみてビックリ。タイヤ自体が一部真ん中で裂けて、大穴が開いている。チューブも含めて“総とっかえ”だ。家のものに言ったら、“新車を買ったほうがいいのに・・“と叱られた。今度は前輪がイカレルかも知れない。
このような場合は古いもを捨てるに“もったいない”とは言ってられないだろう。

mottainai”精神を提唱した人と云えば、環境問題で2004年ノーベル平和賞を受賞したケニアのWangari Muta Maathai女史だ。3年前の全国私学教育研究大会が都内で開かれ、主催者を通じて、大会の記念講演にマータイ女史を招くべく、知人の英国人を通じて女史の事務局本部へ依頼状を送付したことがある。結局スケジュールの都合がつかず招聘は実現しなかったが、“mottainai”の含意は深い。

古くなったからといって捨てて新しいものに取り替えようとする気になる動きがある。英国作家G.K.Chestertonが100年近く前、キリストが唱えた非暴力主義についてこう書いている。
「キリストの理想が、実践された上で駄目だという結論が出たわけではない。その実践は、生易しいことじゃないと思われ、いまだにだれも本気で試していないのである」
同じことが日本国憲法についてもいえそうだ。今まで「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」、本気で外交に取り組んだ内閣はあっただろうか。古くて手垢がついたどころか、憲法九条はまだ新品同然だ。(Arthur Binard:Eveyday Exits参考)
64年前(1945年)の8月14日、山田風太郎は「戦中派不戦日記」のなかで『新兵器なく、しかもアメリカ人を敵として、なお敗れない道が他にあるか? ある! ただ一つある。それは日本人の≪不撓不屈≫の戦う意志、それ一つである』と“ヤマト魂”にすがりながらも一方では『・・満身創痍の日本が、なおこの上米英ソを真正面に回し、全世界を敵として戦い得る?
僕は日本を顧みる。国民はどうであるか? 国民はすでに戦い倦んだ。一日の大半を腐肉に眼をひからす路傍の犬のごとく送り、不安の眼を大空に投げ、あとは虚無的な薄笑いを浮かべているばかりである』と絶望に近い溜め息をもらす。
同じ日の14日、荷風は岡山?の客舎にいた。
『・・急ぎ小野旅館に至るに日本酒もまたあたためられたり。細君下戸にならず。談話頗興あり。九時過辞して客舎にかへる。深更警報をききしが起きず』(断腸亭日乗<下>)

荷風は熱燗を飲みながらも、心中は冷ややかだった。