正座のシビレで話もはずまない・・・

ボクは正座が大の苦手、法事の日など時と場もわきまえず、最初から足を崩して胡坐をかかせてもらう。家に来客があり、和室の居間に通すと、相手が男女を問わず、「足を崩して楽にしてください」とまず勧める。なんのことはない、自分が正座するのが嫌だからである。
というわけで、今般、我が家をrebuildしたが、居間は掘り炬燵にした。ボクのたっての希望である。
さて、成人になった女性がきものを着て“彼”の家を訪ねることになったが、話が下手で、正座に自信がないという。悩んで、幸田文女史に相談する。

「彼とは好意、いえ、もっと深いわかり合いのある交際が進んでいて、けれども彼のうちへおよばれをし、お母さまにおめにかかるのはこれがはじめて。どうか、なるべくいい印象を---というところでしょうか。
 窮屈な和服を着、慣れない正座をし、はなしべたが気になる、というのでは、あなたもさぞ心配でしょう。お察しいたします。でも、なんとかうまくいく方法はないかといわれても、どだい無理な注文です」と前置きして、「話し方というのはね、上手へたというから、つい言葉をしゃべる技術、というように考えがちだけれど、聞こう、話そう、という誠実な気持ちが根本よ。それがあれば通じるんじゃないかしら? もちろん技術もあってよ。でも技術に先行するものは、聞こう、話そう、という誠実な心よ。
・・・損得でいうのではないけれど、あなたは『話しべたの得』ということに気がつかないかしら? 私はへたにも得があると思うわ。へたで苦労しいしい急がずにぽつぽつと言葉を選んで話すのも、わるくないとことだわ。話術を知っていて、すらすら爽やかに話すのにまけないだけの力があると思わない? 言葉は渋っていても、明るい気持ちで、彼のお母さまとお話しなさいな。
 ・・不幸にも、シビレちまったら仕方ありません。暫時そのままに、シビレているよりほかないわ。そこなのよ、肝心なのは!
現代ふうにいうなら、要はあなたがいかにシビレにむかい合うか、というわけかしら? シビレると笑いたくなるものよ。笑えばいいわ。泣きたくなる? 恥ずかしい? カエルみたいな格好だと思ったら彼のお母さまに『私、カエルみたいです』と正直にいえばいいわ。ただ一つ言っては醜いことがあるわ。弁解よ。シビレは最初から考慮のうちにあった弱みでしょ? この期になってゴタゴタと弁解はきき苦しいわ」(幸田文≪しつけ帖≫より)

幸田さんのお説のとおり、訥弁結構、シビレもジタバタしなさんな。シビレたままでいこう、とは言うものの、シビレはツライ、勘弁してほしい。