“好きな道を探せ”というが“個人はどこへ・・?”

前世紀末、≪21世紀への視座/100人インタビュー≫のなかで、作家MR氏が『個人はどこへ』と題して語っている---
「・・ボクが『危機感を持て』という時の『危機感』にしても、ボクは欧米流に前向きに使っていますが、日本では危険性とか否定的意味合いが強いんです」
「困ったときにはだれかが何とかしてくれる“終身雇用幻想”の社会だったからでしょう。町内会だったり、企業や政府・官庁だったり--この120年ぐらいは社会のどこかの組織が人々を救ってくれ、安定感を与えてくれた。このため個人という概念は必要なかったし、個人が状況に危機感を持たずにすんだ」
「近代化を終えた今の時代に起きていることは新しい出来事です。過去に学ぼうとするのは悲観的懐古主義です」
「本当の競争社会は自分の能力を磨き、自分の人間関係を充実させる社会だから、他人をけ落とすヒマはない。仮に競争に負けても、それなりに情報が個人に蓄積されていれば、ほかの組織でも通用する」
「『好きなことをやる』--リスクを引き受けながら自分の好きな道を探す・・・」
「日本に金と勢いがあり、ジャパン・アズ・ナンバーワンといわれた80年代の初めはみんな不安もないまま、古い観念にとらわれていた。あの頃にくらべたら、今の日本ははるかに良くなっている。みんな不安がって、なんとかしようとしている・・」

10年以上前の今世紀に対するperspectiveだ。当時、こんにちの未曾有の不況・金融危機を予測しただろうか。連日、企業の雇用喪失が引きもきらない現状に照らせば、“今の日本ははるかに良くなっている”とは楽観的すぎるかもしれない。リストラに喘ぐ者たちにとっては、≪個人はどこへ?≫と叫びたくもなるが、いまこそ『意思的楽観主義』が必要だろう。