モノクロのリアリズム

内田吐夢の名画「飢餓海峡」を観た。16㎜フィルムで撮影したモノクロ映像を35㍉に伸ばし、荒涼感を出す特殊な手法を駆使、終戦直後の日本人の精神的飢餓を表現している。3時間モノの長尺、1965年の作品である。三国連太郎の陰影ある彫りの深い迫真の役創りに圧倒された。悲運の境遇に翻弄される相手役の左幸子。貧困に抗して切なく生きる当時の女性の姿をひそやかに演じる。脇役の伴淳が初老の刑事を好演。一歩引いた自信無げなキャクターが秀逸だった。


敗戦後の精神的飢餓の背景には当時の極度の食糧難があった。本田靖春不当逮捕』の中で次のような壮絶な出来事が描かれているー「当時、東京では食糧難が極限に達しており、昭和22年8月には、食糧のヤミ売買を中心とする経済事犯担当の山口良忠東京地裁判事が、職務に忠実であろうとして配給量だけの食事を続けていた結果、同地裁の階段で昏倒し、10月に33歳の若さで世を去るという痛ましい出来事が起こった。病名は肺浸潤だが、つまりは餓死したのである」
70年前、終戦を迎えた日本人は解放感に浸りながらも呆然として思考が混乱していたのではなかろうか。物心の飢餓状態から抜け出すのが困難だった。
大戦後間もない社会を描いたイタリア映画の名作「自転車泥棒」と対比してみよう。失業者で溢れるローマの街は混乱し、無秩序ながらも、そこには民衆の活力とヒューマニテイ、そして陽気さが感じられる。現実の息苦しさを知っていればこそ一息つかねばならぬ。セリエAの試合に熱狂し、ヒステリーにならず、新しい知恵や意欲も湧いてくる。何故だろう。国民性から来るものなのか?


戦争のケリのつけ方が違う。ドイツ・ナチに制圧されたローマは「無防備都市」(開かれた都市ローマ)となった。けれども、ナチスの傀儡、ムッソリーニ率いる「イタリア社会共和国」にバルチザンが抵抗し、ムッソリーニを葬り、降伏後連合国側に立って、同じ枢軸国のドイツを倒した。

ドイツは「裏切りモノ、イタリア」と激怒したものの、イタリアは戦勝国として大戦を締めくくっている。モノクロには空想・幻想は似合わない。冷厳なリアリズムが似つかわしい。