躾・家風--言葉の伝承

親爺や祖父の子や孫に対する躾の厳しさ話はこのところ余り耳にしない。児童虐待などと言われ事件になるケースがままあるだけで麗しい家風として語らることは先ごろまず見られない。

その点、小石川蝸牛庵の露伴による娘文子(幸田文)と玉子(青木玉)に対する躾・小言・お叱りは徹底していた。が、その一言ひと言が幸田家の言葉として引き継がれ、三代のエッセイト(随筆家)を生み出している。


講演を頼まれた幸田文女史が露伴について語ったこんなクダリがあるーー
「私の父は、『一つことに打ちこむとバカにだといわれ、自分もバカのようになってする。しかしその結果、一つの業績がそこにあらわれると、よく、血まなこになってやったとか、心血をそそいだとか、寝食を忘れてやったとかいわれるけれども、あのくらいおかしいことはない。血まなこでやっていて、何がみえるんだろう。寝食を三日忘れていたら、骨と皮ばかりになってしまう』と申します」
聴衆は大笑いだ。続きがあるー『寝食を忘れるということはある。だけど寝食を忘れただけででみんなできると思ったら違う。血まなこということもある。血まなこもりっぱだ。だけど、血まなこになり通しで長い間、そんなお前、怖ろしいことができるか。』--ということになる。

露伴千葉市川市で生涯を終えた。1947年(昭和22年)7月30日、80歳。最期を看取った娘文子さんが随筆『終焉』になかで--「仰臥し、左の掌を上にして額に当て、右手は私の裸の右腕にかけ、『いいかい』と云った。つめたい手であった。よく理解できなくて黙っていると、重ねて、『おまえはいいかい』と訊かれた。『はい、よろしゅうございます』と答えた。あの時から私に父の一部分は移され、整えられてあったように思う。うそでなく、よしという心はすでにもっていた。手の平と一緒にうなずいて、『じゃあおれはもう死んじゃうよ』と何の表情もない、穏やかな目であった。私にも特別な感動も涙も無かった。別れだと知った。『はい』と一ト言。別れすがらが終わったのだった」--
露伴の晩年の言行を記録した小林勇の【蝸牛庵訪問記】の中に、露伴の臨終場面の迫力ある回想描写がある--
「玄関にいたものは、一度に先生の室へいった。武見氏も靴をぬぎすて、鞄をかかえて室へ戻った。わずか五、六分前までの先生の赤い顔は一変して、蒼黄ろい面貌になっていた。武見氏は聴診器を先生の胸にあて、脈をとっている。誰も一語も発しない。この家にいる人はすべて室に集まっていた。武見氏の手が先生の手から離れ聴診器が耳からはずされた。そして型通りの挨拶が文子さんになされた。九時十五分であった。文子さんが静かな声で、『お父さん、お静まりなさいませ。』といった。」


祖父露伴を看取る母のたたずまいと言葉は娘玉子に引き継がれている。
幸田文は1990年84歳で他界した。

青木玉女史は母との最後の別れをを名著【小石川の家】の末尾で描いている--「火葬場は町屋であった。近頃建て直したという斎場はうら悲しい蔭など無いさっぱりした建物で、手際よく最後のお別れをする、もう一度は母の静まった顔をしっかり目に納め、生相憐み死相捨つと教えた祖父の教えを胸にして、熱気のこもる大きな口の中へ母を送る。・・・」

淡々とした冷厳な表現に≪文章の家≫の血が脈打ている。この祖母の最期に孫娘の青木奈緒さんも滞在中のドイツから駆けつけている。