悲しみを抱きしめているか?

3.11の午後、新丸ビルのレストランであの激しく長い揺れに遭遇したボクは思わずテーブルの下に頭を隠し呟いた。
「これはただゴトじゃない。大変なことになったぞ」
あの日から1年経った。以来ボクは言葉を失ったままでいる。余りにも大き過ぎて、震災の現実を捉えきれないからだ。

「限界を持たざるを得ない社会システムは巨大な震災には無力だった」と高村薫さん。「近代文明、そして科学技術の“神話”があの日に崩れ去ったいま、これまでの社会システムの限界を認め、『新たな道』を選択できないものか?」と問いかける。
その上で「遠い未来を眺めどこまで何ができるかを考えること」「1人ひとりが現実を凝視する意志を持ち続けること」と云う。


3.11への関心が劣化し弱まっていく感じがする。高村さんも疑問を投げかけているが、「復興というがどのようなイメージを持って復興と言っているのか。誰もわかっていない。元に戻すことではないはずだ」

高村さんは「余りにも巨大な震災のため言葉に出来ないでいる」「東日本大震災を言葉にすることが大切だ」と結ぶ。<3.11を経験しても何も残らなかった>ではすまされない。

福島第一原発事故は世界の脱原発の動きに火をつけた。
米国西海岸で“Accidents Do Happen”(事故は必ず起きるものだ)とNo More Nuclear。仏独でも脱原発依存人間の鎖とデモ。


ところが火元のTEPCOは鉄面皮だ。福島県民の受難の苦しみを無視、県議会の全廃炉決議に挑戦するかの如く原発再稼動の下心が見え隠れする。そこへきて、経産省原子力安全・保安院(Nuclear and Industrial Safety Agency=NISA)が正体を暴露した。6年前、IAEAによる国際基準の見直しに合わせ、内閣府原子安全委(Nuclear Safety Commission)が原発事故に対応する防災指針の強化の検討作業に入ろうとしたところ、NISAが強硬に反対した。理由は「原子力安全に対する国民の不安感を増大する」と云うから狂気の沙汰だ。INSAが守ろうとしたのは人命ではなく妖怪のようなIndustry,TEPCOに他ならない。双方とも万死に値する。

「子供たちに原発という危険なものを残そうとしていることを申し訳なく思う」と子供を抱いてデモ参加のフランスの主婦。

16日に始まった『パリ書籍見本市』に参加の大江さんが討論会で、「日本政府は原発について真面目に考えていない」と、原発再稼動へと動く政府の姿勢を痛烈に批判した。

被災地を取材するCNN, Le Monde,中国中央TVなど特派員記者が口を揃え指摘している。−−「被災者たちの精神的強さに世界は驚嘆しいるが、個人の強さを組織としてまとめることの出来ない政府、リーダーシップの無さに唖然とする」--


「7ヶ月前に比べ被災地の人々は希望を失いつつある」--南相馬市仮設住宅を訪れたLe Mondeの記者の言葉は痛切だ。

絆とか“被災者に寄り添って”などという耳障りの良い言葉が氾濫しているが、僕たちは本当に“悲しみを抱きしめて”(Embracing Sorrow)いるのだろうか?