悼--QueenとHero

木村拓也コーチが急逝した。奇跡を祈ったが・・恐怖のくも膜下出血だ。
今日のお別れに、第二の故郷広島は哀悼の涙に暮れた。いぶし銀の苦労人、玄人好みの選手だった。投手以外どこでもこなせるプロ野球選手、稀有な存在だ。家族が痛ましい。夫人が「拓也は家族のヒーローでした」と挨拶。参列者の涙を誘う。

彼の故郷、宮崎市も出身校宮崎南高校も悲しみに包まれた。
宮崎南高校は県下有数の進学校だ。東大をはじめ、今春の国立大合格者140名を超える。進学校として宿命づけられた公立高校の部活動は大変だ。課外練習時間も制約されている。が、野球部が創部26目の1988年甲子園に初出場した。昭和最後の年、第70回記念大会の夏である。木村拓也選手はこの年、1年生ながらレギュラー出場した。県大会で本塁打36本の強打者、俊足、強肩は群を抜いていたという。
同校出身者はほとんどが大学進学する。同窓の先輩、清武巨人軍代表は立命館大、若手の名優堺雅人さんは早稲田出身だ。
キムタク選手は高卒でプロ野球界に飛び込んだ。伸長173㎝、見た目に非力だ。ドラフト外の、今で言えば育成選手のようなものだった。たちまち入団した日本ハムから戦力外通告?を受け広島カープに移籍した。その後の多彩な活躍ぶりはまさに水を得た鯉だ。当人も自認するとおり「空いているポジションを埋める」便利屋さんだ。地味ながら、なぜか気になる選手で存在感があり、意外性を秘めていた。

甲子園出場時の同校の監督Mさんは「技術面だけではなく、いつもニコニコした温厚な性格で皆に好かれていた。一方で、内に秘めるファイトも感じさせる選手だった」と当時を回想する。
キムタク選手とともに野球部で汗を流したM.Yさんは「主将だった拓也がチームをしっかりまとめてくれた。努力家で、午後7時半過ぎまで部活動後、遠方の自宅まで自転車で帰り、その後さらに打撃練習と筋トレをしていた」と突然の悲劇にショックを隠せない。
1988年と云えば、明日4月11日、美空ひばりが東京ドームで復活公演「不死鳥コンサート」を行なった。ひばりちゃんも翌年六月他界した。ボクたちファンは涙にくれ、空前絶後の歌謡界の女王の早世を悔しがった。

美空ひばりが燦然と輝くQueenだとすれば、木村拓也選手・コーチは名脇役のHero。これほど“資性温厚な職人選手”はそう滅多に輩出しないだろう。
知性もあり研究熱心な野球小僧がいつの日か球界を代表する名伯楽になるのを期待されていたのに・・・。痛ましい。愛惜と哀惜以外言葉が見つからない。