塾代>学校経費(学費)=OK??

難関私立中学受験に向けて小2から塾通い。大手進学塾が全国の小学生対象に学力テストを実施した。小2が初参加した影響もあり受験者約10万人に及びビックリ。テスト上位者3〜5年生各50人を東京に招待し「決勝大会」を実施する有様に二度ビックリ。まるで“コンテスト”だ
通塾熱は過熱するばかりだ。小1の息子を塾通いさせている母親が公立小学校の教科書について「薄くて、知的好奇心が刺戟されるのか疑問だ」と仰るが知的好奇心は教科書だけでしか身につかないの? お父さん曰く「小学校には楽しく通っている。教育内容は気にならない。塾代は高いが、学力と精神的成長を得られると考えれば、見合う投資だ」


この親父さんの言葉を解読すれば、「楽しく通っている」とは“楽しく遊んでいる”、「教育内容は気にならない」とは“授業の内容などどうでもいい”となる。気になるのは、果たして<(塾で)精神的成長が得られる>かどうかだ。

ともあれ悲惨なのは、公立小中は交遊の場(遊ぶところ)、家庭は金を出すところ、勉強は塾で・・・という具合に成り果てている点だ。
藤沢周平さんのエッセイ「周平独言」のなかに<未塾児>なる題名の一編がある。
「塾に行っていない子供を未塾児というらしいが、私の家にも未塾児がいる。いま中学1年で、春には二年になる。・・今の子供は、幸か不幸か、みな高校に行くような仕組みになった。・・中学になると、教科を理解できる子と理解できない子、つまりついて行けない子の差がだんだんはっきりしてくる。しかし出来ないから中学だけでやめさせるわけにいかない。そういう仕組みになっている。学校でだめで、親に教える余裕がなければ、あとは塾にやるしかない。だから教育ママとひと口に言っても、有名校から東大をねらわせるといった積極ママから、家で面倒みきれないから、塾にやるという消費教育ママまで、かなり幅のひろがりがあるのではなかろうか。
 学校で落ちこぼれがないように教えてくれれば、それにこしたことはないのだが、なかなかそうはいかないものだだろうと思う。むかし中学校の教師をした経験からいえば、どうやっても出来ない子はいる。すべての教育技術を駆使しても、落ちこぼれは出る。二人分働いてもそういう結果は出る。・・そういう学校制度の欠陥があれば、塾産業が繁盛するのは当然で、塾経営は、いまの教育制度下では、十分意義のある存在ということも出来る。
 だが、私は子供を塾にやろうとは思わない。まだ子供なのだから、子供らしく少しは遊ばせたい。また嫁に行っても困らないように、掃除、洗濯、料理といつたものをしつけたい。勉強だけの人間は、人間として片輪だという考えがあるので、塾にやって、子供が自分の時間を全部勉強にとられては困るのである。少しぐらい頭がよくなっても、嬉しいとは思えない。
 それと、もうひとつ、私は熱狂がきらいである。塾にやっていないというと、うさんぐさげに私をみたりする、加熱した風潮が恐ろしい」

家庭の大きな役割は小学・中学のころの子供に対する躾だ。“三つ子の魂百まで”というが、小中時代の躾がその後の子供の進み行きに大きく影響する。
大江健三郎さんのいう、≪descent(品位ある)でhumane(人間味のある)≫若者が望ましい日本人、国際人に成長するのではなかろうか。
そして、子供にとって“取り返しのつかない”ことはない。この「原則」を尊重する子供を育てることだろう。逆に言って“取り返しのつかないことをしない”「原則」とは何か---≪まず自分の、そして身近な人たちの問題として、子供がほかの人間を殺す(殺人的)暴力をふるい、自分を殺す(自殺)暴力をふるうことがあってはならない、それが『原則』だ≫(大江健三郎:<『自分の木』の下で>より)

いまの子供たち、我が国の小中高生に見られる“危さ・脆弱さ”を直視するとき、通塾が子供の救済の場ではない。家庭・学校・地域が一体となって子供たちに“取り返しのつかないことはない”、そのための「原則」を決然と教えることだろう。