大喜利と落語は無縁に近い

こないだ、小三治師匠の“まくら”に触れた。そのなかで、園遊会に招かれた五代目小さん師匠が天皇から「このごろは、落語のほうは、どうなの?」とのご下問を受けて、「ええ、近ごろだいぶいいようで」。
まるで病人が快方に向かってるような答えだ。さすが噺家名人の即妙の受けに唸ったものだ。
小三治師匠が世に言われる“寄席ブーム”なる言葉を問題にしている。寄席イコール、落語・漫才ではない。落語の面白さ、楽しさというものは寄席ブームとは質が違う。
ひと昔、ふた昔ほどじゃないが「大喜利」というお笑い番組が今も受けている。4chの≪笑点≫が最も長続きしているが、この大喜利形式のバカ笑い番組は10指を下らない。
大喜利とは、寄席で、トリを落語・漫談が取らない場合、しばしばその代わりに行われた演芸で司会者を伴うことが多い。元来、寄席において観客へのサービスとしてと行われていたもので、最後の演目として複数の出演者が再び登場し、観客から題目をもらって互いに芸を競い合う余興だったという。

大喜利に八年も関わっていた小三治さんが述懐している。
「・・大喜利の司会を八年もてえのは、なんとも、はや、こりゃ、長過ぎだよオッたってもう過ぎちゃったものはしょうがないけど。ま、それはそれとして、こういったようなことと、それから、こうやって寄席という形でお話を聞いていただくってぇことは、言ってみればぜんぜん別個のものだとあたくしたちは考えいますから。
中には大喜利っていうものも落語家の1つの仕事だろうと思ってる人がいらっしゃるんですね。それは無理もありません。あれだけ大喜利番組が各局長年割拠していたわけですから、当然、大喜利をするから落語家だと思ってる人がいても不思議はないでしょうが、よく大喜利も世間に売り込んだもんです。
あたしたちからすると、落語家は別に大喜利ができなくてもいいんです。昔は、大喜利のうまい噺家にろくなやつはいねえって言われたもんです。このごろ必ずしもそう言えなくなってきたのかもわかりませんが、でもそうなんです。
さて、もう一ぺん申し上げますと、このごろお客さんが減ってきた。そのため寄席が下火だってなことを言われますが、ちっともそんな感じはしませんね、あたしは。寄席で確かにお客さんの数は減ったかもわかりません。そのかわりちゃんと聞いてちゃんと楽しもうっていう、そういうお客さまはかえって増えてますね」

22年前の、小三治師匠の語りである。当時言われた“寄席ブーム”だが、実は寄席とは殆ど関わりのない“お笑いブーム”だったのである。

それじゃ今はどうか。落語に人気があり寄席ブームなどと言われているが、問題は客層だ。TVのバラエティ番組にどっぷり浸かったお客さまが“お笑い番組”と同質の笑いを本物の落語から期待してお越しになっているとすれば、いささか拍子抜けになって、笑いどころで笑えないんじゃないかな。特に小三治さんがトリをつとめる寄席は聴き手の側のレベルが問われるのでご用心。